極月。今年もあと残り少なとなりましたが、みなさまいかがお過ごしでしょうか。『銀髪』稽古、すでに始まっております。
文芸助手のわたしもときおり稽古場に行ったりします。そして、とくに何も発言せずに黙って帰ります。あとは文芸助手っぽくメモを取ったりします、とくに意味もなく。今、先日稽古中にとったメモを見返したら「すごい我慢するのでお風呂で叫んで泣いてスッキリ」「仏教というよりもマルクス」とか書いてありました。神秘的ですね。
実は、最初のうちは広田さんの戯曲執筆を手伝えばいいのだから文助(bun•jo)の俺が稽古場に行く必要はないぜ、などとタカをくくっていたのですが、演劇創作にたずさわるうち、徐々に認識を変えて、今では時機を見はからい稽古場に居合わせるようにしています。広田さんとの議論も、『ロクな死にかた』まではメール中心でしたが、『月の剥がれる』以降は対面の打ち合わせも重視するようになっています。
なぜか。そういうふうに変わってきた理由はいくつかあります。理由の第一を挙げるなら──演劇創作のプロセスにおいては、人と人との間の「コミュニケーションのズレ」が深い意味を持ってくるらしいと感じ始めたから、です。ここで言う「ズレ」とは意見の相違のみならず、相手の予期せぬ言動、こちらの言動の予期せぬ受け取られ方、相手のささいな誤解、こちらのささいな誤解、相手の考えの不透明さ、こちらの考えを完全に伝え切ることの不能、それに基づく感情的反応、気分的齟齬、混乱、困惑、……等々を含みます。こうした「ズレ」はメールやSNSを介したやり取りでももちろん生じますが、リアルタイムの、直接対峙してのコミュニケーションでは、その「ズレ」の体験としての残り方が全然ちがう。或る意味、無意識に「傷」として残ると言ってもいい。
おそらく普通の社会生活の場と比べても、演劇の現場ではこの「傷」が不可避であるように思います。俳優の立場だと、一つの舞台作品の上演を目指すという主目的以外に、価値観も、考え方も、自己規定も共有しているわけではない集団のなかで、たとえば恋人同士のシーンを演じるとなれば、いきなり自分のプライヴェートな面を人前に(相手役・演出家・その他俳優・その他スタッフに)さらさなければならないということが起こる。俳優は、それがどう「誤解」されるかに耐えなければならない。コミュニケーションとしては非常に偶発的で不安定。でも、或る詩人の言い草じゃないですが──「美には傷以外の起源はない」──そうしたコミュニケーションのズレが、精神的な「傷」がちくちくと蓄積していくことによって初めて見えてくるものも、たぶんある。わたし自身予想外の「傷」を見つめることから、戯曲に対する、人に対する、世界に対する感受性が変わるという実感を得ています。それも、単に変化するのではなく、深さが増すという方向で。思うに、精神の表面がほとんど傷で乱されないほどに鈍くなってしまえば、演劇において重要な何かが失われてしまう(のかもしれない)。
とまれ、以上は思い付きです。色んな演劇の現場を比較して言っているわけではありません。ただ、アマヤドリの現場がコミュニケーションのズレを恐れない場であることは、たしかです。わたしと広田さんのやり取りに限っても、そういうことが言えると思う。文芸助手のわたしが稽古場へ行くのは、無意識の「傷」を自覚し先入観で鈍くなりかかっている感受性をふたたび過敏にする、という意趣です。戯曲の理解においても、それによって深化するものがあると考えています。
アマヤドリ本多劇場初進出公演、『銀髪』再々演、2017年1月26日より。稽古初期からすでに現場の緊張感は高密度です。公演関連の各種イベントも発表・開始されました。ご期待ください。
***
アマヤドリ本公演
『銀髪』@本多劇場
2017年1月26日(木) 〜1月31日(火)
http://amayadori.co.jp/archives/8910
http://amayadori.co.jp/ginpatsu
アマヤドリ本公演
『銀髪』@本多劇場
2017年1月26日(木) 〜1月31日(火)
http://amayadori.co.jp/archives/8910
http://amayadori.co.jp/ginpatsu