(思い付きの突発企画! アマヤドリ本公演『銀髪』に出演してくださる客演陣に向かって白羽の矢をビュンビュン飛ばし、頭に矢がささった方に、容赦なくインタヴューを敢行します。最初に白羽の矢が立ったのは、武子太郎さん。現在劇団クロムモリブデン所属、劇団所属前からもフリーの役者として年6〜8本ペースで芝居に出演されていた演劇経験値の高いベテラン。アマヤドリへの参加は今作が初になります。)


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───今回は完全に初めましての状態からのインタヴューになってしまうのですが、実は、事前に広田さんから武子さんのことを少しうかがってきました。広田さん曰く、このあいだの『月の剥がれる』を観に来てくださった時に、観劇後武子さんが広田さんに話されたことが非常に興味深く、それが『銀髪』出演オファーのきっかけになったとのことでした。その時の広田さんとの会話の内容というのは、覚えておられるでしょうか。

武子:『月の剥がれる』を観終わった後に、中日打ち上げのような形で広田さんと出演者の方数名と一緒に飲みに行って、みんなで話しましたね。

───そのお話の内容が広田さんには凄く面白かったそうです。『月の剥がれる』はまったく予備知識なしで観劇されたんでしょうか。

武子:そうですね。その前に僕が広田さんの作品を観たのはもうひょっとこ乱舞時代のことで、それ以来アマヤドリの本公演は観ていなかったんですが、『月の剥がれる』には今まで共演してきた人が大勢出演していたので、それもあって久々に観たんです。
 それで、その飲み会の席で話したことはなんとなく覚えているんですけど……どちらかというとネガティヴなことの方が多かった気がします。「いやー面白かったです!」「僕はあのシーンが超好きでした!」みたいな感じではなくて、「あそこは何でああなったんでしょう」「あのシーンはもっとこうしたら良かったんじゃないか」というような話をすごくした気がします。むしろ、あんなネガティヴなことを話したのになんで誘われたんだろう俺、って思ってました(笑)。

───その時武子さんが広田さんに対して示した疑問というのが、広田さんにとっては鋭い分析と感じられたのだと思うのですが、それを、今あらためて語ることはできますでしょうか。

武子:うーん。まず、僕はアマヤドリをそんな多く観ているわけではないけど、という前提で言うと……『月の剥がれる』は一見すると、主宰・劇団員の表現したいことは言葉の美しさだったり、身体表現だったり、展開の複雑さであったりというふうに見えるんですが、根っこのところではすごくシンプルなんだなと感じました。根っこのところでは、感情があるかないか、ちゃんと届けているか、相手が動かされているか、といったわりと感情的な部分を大事にしている。理知ではなくて感情の方でいくんだなと。やっぱり広田さんって頭もいいし弁も立つし語彙力もあるし、普段は理論的に話しているイメージなんですけど、演出する上で目指しているものはすごく内側の部分で、結果それが外に表われるということを気にされているんだなと思いました。

───『月の剥がれる』での役者の演技を見てそう感じられたんですね。

武子:もちろん上手い人と下手な人で差はありましたし、全員が要求されているレベルに達していたのではなかっただろうと思いますが、全体で目指そうとしているものは、同じところに向かっていて、ここに向かいたいんだなというのがはっきりしていたので、その点では好感を持ってみようと思える印象はあったんです。
 ただ、難しい言い方になりますけど、個々のレベルの底上げは絶対に必要だな、と。単純に劇団員だけをとってもまだ差がすごくあるので。飲み会の時にもそういう話をしたと記憶しています。結構具体的に、名指しで、誰々の、何々役の、あのシーン、みたいに。『月の剥がれる』の全体像として何をやろうとしているかは分かるのだけれど、個々の集合体の、その個の部分があともう一歩っていうところが多かったと僕は見ていて、あの長時間を見せるためにどのシーンを切り取っても高いレベルにあるという状態までは達していなかった。ワンシーンワンシーン、一言一言を切り取った時の個の能力があと一歩足りていない。サッカーで言うと、オシムサッカーとしてはこういう戦術で行きたいっていうのは分かるんですけど、一対一の能力、弾際の強さがまだまだで、この状態でブラジルと戦って大丈夫なのか、と。でもそこが伸びてくるとアマヤドリは化けるだろうなという雰囲気はあります、構想としては他にないような壮大なことをやろうとしているので。『月の剥がれる』についても、もっとこれがクオリティ高くなったものを観たいなっていうのが、率直な感想でした。

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───先程武子さんがおっしゃった、個の一対一の能力/全体でのオシム戦術という対比はサッカーの比喩なのですけど、この「戦術」というのを、さらに言葉にして語っていただけるでしょうか。舞台芸術上のストラテジーというのはどういうものなのか。

武子:そうですね……僕自身が色んなお芝居や劇団にかかわってきた経験から言うと、まず、ナンセンスの要素が入ったお芝居っていうのは「ディズニーランド」として捉えることができると思っているんです。それ以前の大前提として、演劇も演技も、基本の大枠は嘘です。どれだけ役になりきっても、すごくリアルに演じたとしても、どんなに深く役作りを突き詰めても、科白はあらかじめ決まっているわけで、自分は当の人物そのものではないわけで、「それはフィクションだ」と言われたら反論はできない。でも、その前提の上で、一つの演劇作品、一つの劇団において一番大事にされているリアリティって何だろうということを考えてみるんです、僕が新しい現場に行った時には。
 その作品・劇団が一番大事にしているリアリティ。たとえば「ディズニーランド」であれば、ネズミが喋っている時点で大嘘なわけですけれど、それを指摘して「嘘だ」「リアリティがない」と文句を言いたがる人はいないと思う。ネズミは言葉を喋らないということがディズニーランドにとって大事なリアリティではないから。そうではなくて、ディズニーランドにとっての「リアリティがない」っていうのは、ミッキーマウスが二匹いたり、着ぐるみのジッパーが開いていたり、ということであったりする。そこでお客さんに「嘘」を見せないことをディズニーランドは大事にしていて、そのキャラクターがそこに実在しているという夢の世界をお客さんに体験させることによって、お客さんに満足を与えている。ディズニーランドがこだわっていて気に掛けている「リアリティ」というのは特にその点に存するわけです。
 当然ながら、ネズミは喋らない、チューチュー鳴いているだけのはずだ、ということを気に掛ける「リアリティ」もあり得ます。そこは劇団によってのカラーの違いになる。でもアマヤドリはやはりナンセンス要素の入っている劇団だと思うので──現代ないし過去の現実をそのまま再現する芝居をやっているわけではないと思うので──まずは一種の「ディズニーランド」として捉えてみて、どこで嘘をついてよくて、どこで嘘をついてはいけないのか、を稽古しながら探っていくことになります。ここはどんなディズニーランドなんだろう?っていうことを。

───その、劇団によって異なるリアリティの基準というのが、全体として目指している「戦術」の基礎になるわけですね。

武子:今僕はクロムモリブデンという劇団に入っているんですけど、それまでは十年ぐらいフリーで芝居をして、色んなところに選り好みをせず出ていて──大所帯もありましたし、すごい少人数の芝居も、コントもあればコメディもあれば、ナンセンスもアングラもあったりで、ありとあらゆる芝居に出ていた時期があったんです。その時に、色んな主宰、色んな劇団に出会うなかで、一番最初に気にし始めたのがそこでした。その主宰、その劇団がやりたいことと大事にしているリアリティは一体何なのかを探って、それと自分ができることやりたいことを擦り合せたり、自分が何を提示できるかを考えたりして、一ヵ月二ヵ月の稽古のための指標をまず作るということを、いつしかやるようになっていたと顧みます。
 あとは……「戦術」ということで言えば、今回の座組は大所帯ですから、全体の共通認識っていうのがかなり重要になってくると思います。すべての価値観を一致させられるわけではないにしても、少なくとも同じポイントを見ていて、全員同じように広田さんの言葉を聞いているという状態がベースとして必要だろうと思う。これだけの大所帯で、全員が同じシーンに出るわけではないし、全員が同じ比率で舞台に出るわけではないから、各々はどうしても舞台上でばらばらに散ってしまう。それでも、裏にはけているあいだにも、同じヴィジョン、同じ認識を維持しつづけて、次に出てきた時にそれを繋げていくことができるっていうのが、長い芝居をやる、大人数の芝居をやる上で大事なことだと考えています。今舞台上に出ている人だけではないところで何かが繋がっていくということが。

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───話は変わって、ここまでお話を聞いていても感じる武子さんの役者としての経験値の高さ、ということに関連して、武子さんが今年の8月頭に実施した「本読み」のワークショップ(http://bit.ly/2gZAquV)についてうかがってみたいです。「本読み」のワークショップというのは珍しい気がしますが、どのような内容だったのでしょうか。

武子:あの時にやったのは……俳優が行う演劇ワークショップというのは色々あると思うのですが、よくあるのは、身体を中心にしたワークショップで、これはもちろん悪く言っているつもりは全然ないんですけど、身体の使い方、声の出し方、身体を使った表現方法、といったワークショップが総じて多いなと感じているなかで、僕がやりたかったのは、完全に教科書のように台本を読んでみるというワークショップでした。なぜここで、なぜこのタイミングで驚いた方がいいのか。なぜここで間をおいた方がいいのか。本当に国語の勉強みたいに台本を一行一行読むというワークショップをやってみた。というのも、今までに色んな劇団で色んな役者さんとやってきて、なんでこの人は台本に書かれているこれを読み取れないんだろうか……と感じることが少なくなかったんですよ。たとえば、ここで科白で「待って」って言っているんだから待とうとしなきゃいけないのに、それを無視してやっていたりとか。台本のなかにもっともっと情報があるのにそれを読み取れてない人が意外に多いなと実感して、そこから、じゃあ自分はどういうふうに台本を読んでいるかということを自分のなかで系統化してみて、それを伝えるワークショップを実施した、という次第です。敢えて頭を使う演技の仕方をやってみたワークショップでした。

───なるほど。おそらく、そうした武子さんの基礎的な戯曲読解力の高さがあってこそ、『月の剥がれる』を一度観ただけでさまざまな演技上の問題を指摘でき、それが広田さんを唸らせるということが可能になったのだろうと思います。実際、武子さんが『月の剥がれる』について指摘されたことは、なぜその科白をそういうふうに言うのか、とか、全体のなかでのそのシーンの位置付けを考えればそういうふうにならないはずだ、とか、戯曲読解レベルでの疑問もあったのではないか。

武子:そうですね……たしかにそういうことも言った記憶があります。どの科白が、という細かいことは覚えていないですけれども。全体の流れからするとあの言い方じゃないんじゃないか、とか。そのワンシーンだけを見ていたら成立しているけれど、前後のシーンが何であるか、自分がそのシーンに出ている意味、今一時間四十五分もお客さんは観てきているところであるという状況、そうしたことを広く視野に入れてやるべきじゃないか、とか。やはり、役者は作・演出と同じレベルの視野に一度は立つべきだと思うんです。演劇ですから、衣裳を自在に変えたり、セットを全部変えたりっていうことは現実的に無理だとしても、時間が経っている、場所が変わっている、季節が違っているということによって何かしら、身体の持っている状態や、人との関係性、或いはそれよりももっとささやかな変化があるはずで、それは、ともすれば全体のお芝居の空気感に繋がってくることもあるだろうと思っているので。あまりにも自分の役しか読めていないっていうことの弊害はあると思う。

───『月の剥がれる』を一度観ただけでそれを指摘できる、つまり完成形の舞台だけを観てそこまで指摘できるというのは、武子さんの観劇の眼の厳しさというものも感じます。

武子:僕は、映画はそうでもないんですが、演劇を観る時には100%お客さんの状態では観られないんですよね。絶対に役者視点で観てしまう。といってもべつに粗を探しているつもりはなくて、裏を知っている人間として総合的に、本番でもどこか稽古を観ているような状態に近くなるんです。ここで照明当ててもいいなーとか思ったり、このシーン自分だったらどうするかなーと思ったり、今のタイミングはもう少し遅くても良かったよなーと感じたり。だから、普通のお客さんよりは積極的に観ようとして観ていますね。

───でも、役者の方には誰しも必要なことだと思います。楽しむだけでなくてそのように能動的に観ることは。

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───ここまで話をうかがってきて、そんな武子さんが『銀髪』という戯曲をどう読んだかが、いよいよ気になってくるのですが。

武子:難しいのは……ちょっと語弊があるかもしれないですが、『月の剥がれる』とはやりたいことが違うというか、書いた人が違うんじゃないかっていうくらい全然違う作品ですよね。台本を読んでそう思いました。再演は2007年、初演はそれよりもさらに前ですから、その頃の広田さんが持っていた熱量、温度、やっぱり若い頃の、こっからこの劇団を大きくしてやろう、むちゃくちゃやってやろう、売れてやろう、っていうパワーがすごく戯曲に込められている。その山っ気は『月の剥がれる』ではもう洗練されてきていて、『月の剥がれる』は、作品としての勢いもありつつ、大人の鑑賞にも堪える、全体的なクオリティの高い戯曲であったと思うのですが、『銀髪』はもう、荒削りで、パワフルで、本当に若い人たちが若い人たちのためだけに演じているというようなところがある。その作品を、劇団としては円熟した今の状態でやるというのは……現在の広田さん自身が過去の『銀髪』をどう読んでいるのだろうかということが、まず気になるところですね。
 再々演にあたって戯曲が差し替えられることになっていますけど、現在の広田さんはこの過去の台本のどこにギャップを感じていて、どう書き換えようとしているのだろうか。僕としてはこのままで、あとは演出だけ変えるとか、僕らが自由にやってみるとかでもいいんですが、リライトされた『銀髪』を読むことでまた新たに発見できることがあると思っています。広田さんは、今回のリライト作業を通じて、現在の自分が考えていることと、これを書いた過去に考えていたこととのギャップを埋める作業をしようとしているのだろうから。時代考証的に、或いは今回の顔ぶれに合わせて書き換えるという意味での現実的な調整も当然あるでしょうけど、それ以外のところで、戯曲がどうリライトされるのかを、知りたい。どこをどう変えるんだろう。それを単純に見てみたい。その上で僕らがどう反応していくかが決まっていくだろうと思います。

───広田さんもこのタイミングで『銀髪』を再々演し、リライトするからには、現実的な調整という以上の作業をやろうとしているはずだと思います。

武子:今しかできないことをやりたいですよね。再演版の『銀髪』、台本を読んでいてすごく絵が浮かんできます。でも僕は今敢えて映像を観ないようにしているんですよ。どうせだったら知らない人間の強みを出したいなと思っていて。2007年版がどうだったかは知らないけれど、少なくとも俺はこの台本をこう読んで、こう思った、というのを提示して、そういう考え方もあるのかっていう驚きを与えられたらいいなと。もちろん再演版を踏まえなければならない部分もあるので、それは映像を観た人に教えてもらいつつ、今はまだ観ていない状態で色々提案しています。アマヤドリへの参加自体初めてでもありますし、言い方が悪いかもしれないですが、ビギナーズ・ラックというか、怖いもの知らずであるがゆえに出せるものを見つけたいと思っています。

───広田さんとしても、或る程度は俳優陣にそういうことを期待されているかもしれません。このタイミングで『銀髪』を再々演するということがすでに無難な選択ではないですから。

武子:そうですね。このメンバーで、今日ちょうど発表されたキャスティングを踏まえると、作品を上手くまとめることはまあ難しくないと思うんです。演出とか何も来ていない状態ですが、現状だけで考えてこのシーンはこうなるだろうなっていうのを想像して、作品が成立する図は、描ける。描けるけれど、でも、それじゃダメなんだろうなという気がしています。一旦それをぶっ壊して、再構築して、また壊し、また構築して、ということを通じて何か訳の分からないものであるパワーというのを全員が攻撃的に探っていかないと、正解に辿りつけないんじゃないかという気がしている。調整力だけで上手くまとまっちゃったらダメなお芝居だと思う。最悪「あのストーリーのあそこが良かった、あの科白が素敵だった!」みたいなことをお客さんに思ってもらわなくても、「なんかストーリーも全然分かんなかったけどなんか凄かったしまた観に来ます!」とか思ってもらえればそれでいいのかもしれない。その方が正解かもしれない。単に無難に成立しましたというレベルで見せるべき作品ではないはずだとは感じています。
〈了〉

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アマヤドリ本公演
『銀髪』@本多劇場
2017年1月26日(木) 〜1月31日(火)
http://amayadori.co.jp/archives/8910
http://amayadori.co.jp/ginpatsu
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