アマヤドリ本公演『月の剥がれる』出演者紹介!  
月の剥がれる_出演者紹介_中野智恵梨
中野智恵梨 北海道出身
小学生の時に絵を褒めれた為、調子に乗って油絵を専攻。
辛辣な美大受験戦争に揉まれ、その後KAIKAIKIKIにて作画スタッフとして勤務。
ご縁の重なりで突如演劇を始める。
その中でアマヤドリに出会う。
執拗に追いかけ2014年入団。
 
───『月の剥がれる』という作品についての中野さんの考えをお聞かせください。

 『月の剥がれる』は最初映像で観たのですが、そのときは、外国の、宗教とかテロとかの過激なニュースを観ているような感覚に近かったかもしれないです。身近な話では全然ないけれど、すごい違和感を覚えるというのでもなくて、なんとなく傍観してしまう感じの、距離感。

 それだからお客さんの立場で見ているときは、物語がなんでそういう展開になっちゃうんだろうなって思いながら見てたんですが、今回演じる側として、その場に立つ、自分がその渦中にいる者として考えると、当事者だったら少しずつ流されていってしまわざるを得ないんだろうなという感覚があります。もともと登場人物一人一人が抱えている祈りとか願いはすごく小さくて、それだけ放置しておけば何も起こらなかったかもしれないのに、少しずつ、水滴同士がくっついっていって、大きくなって、全然関係ないところからの水滴とかもまざって、大きな流れになって、誰も止められなくなり、思いも寄らなかったところへ事態が進んでいってしまう……。最初の
水滴一つの段階だったら誰かがひょいって吸い取ることもできたかもしれないのに、色んなものが集まってしまうと大きな川の流れになってしまう、もう流れは誰にも止められない。そういう物語なのかなって感じがします。

 それで、物語が展開していった先の未来で取られる対策というのが、「怒り」を排除することなんですが……本当にそれがいいことなのかな、っていうことも思いました。なんか逃げているような気がして。ナツという登場人物は、また別の行動を選んで、それは逃げとは別の、殴り込んでいる感じがするんですけど、ナツの選択がいいとも思わない。どうにもならない切羽詰まった状況のなかで、その人にとってよりよい方を選択して行くしか無いのかなと思いました。

 そういうふうに、どっちも嫌だけれどこっちの方がマシ、正解じゃないけど少しでもマシな方をしばしば選ばざるを得ない、というふうに世界ってできてるのかなって思うことはあります。『月の剥がれる』にもそれが反映してるのかな。


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