よっこいせ。気まぐれ稽古場レポート第二回です。まず最初の写真は、稽古がはじまる前にもろもろ準備中の舞台監督と演出助手のみなさん。左から演助の石田麗さん、舞監の都倉宏一郎さん、演助の岩本好礼さんです。加えて『すばらしい日だ金がいる』から引きつづいての参加の徳倉マドカさんもいて、舞台監督+演出助手は四人体制です。この日は衣装合わせの再確認で衣装の矢野裕子さん、本荘澪さんも稽古場にいらしていました。

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 さて、もう幕開けまで約二週間だぜっていう段階でのこの日の稽古でしたが、実は、今回の稽古場レポートは広田さんの許可を得てちょっと変わった趣向でお送りしようと思っています。というのも、この日の稽古で通常の演劇の稽古としてはやや異例なことが起こったので、それについて丁寧に記述しわたし自身の整理・考察も加えるかたちでまとめておきたいというのが、その意図です。「いや、広田さん、俺に自由という名の翼を与えるとすげー長文レポートになる可能性がありますけど?」「かまわん」というふうに許可をもらっているので、以下、読者がついてこられるかどうかとかあまり配慮せずに筆を走らせるつもりですが、内容的にそれだけだと完全に稽古場レポートという趣旨から外れますので、まずは後半にあったダンス稽古についても、触れておきましょう。

 ダンス稽古。今回の再演版『ロクな死にかた』にもダンスシーンはあって、その新しいダンスも、現段階ではあとは沼田星麻さんなどまだ稽古場に合流していないキャストを加えてから微修正すればいいというところまで仕上がっています。わたしはそれが作られていく過程はほとんど見ていなくて、この日その仕上がった状態を初めて見たのですが、一言で言うと──とてもいい。面白い見どころがたくさんあって、アイディア満載で、密度が高いので、一度だけでは味わいつくせません。スタジオ空洞やシアター風姿花伝というスケールを想定しつつここまでダイナミックな運動の線を空間に重ねることができているのも、驚きです。また、再演ゆえに演出について自覚的になっている分、戯曲『ロク死に』の内容に呼応するように動きがつくられているところもあり、表面的な複雑さやダイナミズムの魅力だけではない深い鑑賞も可能なものになっています。この点については、公演パンフレット掲載予定の広田さんのインタヴューでも詳しく語られていますので、パンフを買って読ん込んだ上でもう一度ダンスを見てみる(リピート観劇する)ということを試みても面白いと思います! 公演パンフの宣伝はこれくらいでいいですかね? 広田さん。

     *  *  *

 ここからが本題です、いよいよ。(※ちなみに、この記事の末尾に客演の秋本雄基さんへのミニ・インタヴューを掲載していますので、そちらを読みたい方は本題をスルーして下へ飛びましょう)

 前述のとおり、この日の稽古では通常の演劇の稽古としてはやや異例のことがありました。簡単に言うと、或るシーンのダメ出しをしている途中に広田さんが長時間考え込んでしまい(ということにアマヤドリの面々は慣れているのか、そのシーンのダメ出しを受けていた俳優以外の方はセリフ合わせや動き・段取りの確認作業へと移行していきましたが)、そのあと「自分でもこれはよくあまり分かっていない、難しい話なんだけれど……」という前置きから、演技について、とくに言葉と空間の関係について非常に込み入った長い思考が広田さんの口から語られました。それは、演技の良し悪しについての考えがズレているから俳優の腑に落ちるまで理解してもらえるよう話し合う、ということ以上に、広田さんにとっても未知の、今まで演出家として勘でやっていたことを初めて言語化してみるという新しい試みであるかのようでした。広田さんが長考しはじめてから話が終わるまで、時間にして三十分は経ったと思う。さらにそこから、その思考を座組で共有するために、自分の語ったことをあらためて全体に対して講義することも行なわれました。以下の写真はそのときの広田さんの話を聞いている俳優の方々です。

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 しかし、やはりその場で初めて考え出したことだけに、講義が終わったあとにも広田さん自身が「このあたりの話は難しいね〜」と言っていたように、あの話、あの講義だけで、広田さんの話したことの本質をつかむことは困難だったと思います。広田さんの話自体も枝葉が整理されているとは言いがたいものだった。そして実は、広田さんの話を隣りで聞いていて、「俺ならこの話をもっと本質が明らかになるようなかたちで祖述できるのではないか?」と不肖わたくしは感じていたのでした。もちろんここにはわたし自身の理解力に対する驕りがある。とはいえ、去年『すばらしい日だ金がいる』に参加し或る程度演出家としての広田さんのやり方を追うことができて、また日頃から演劇についていくらか広田さんとメールで意見交換することもある立場のわたしだからこそ、あの場で直観的に理解し得たことがあったのだ、と言うことも多少は許されるでしょう。許してください。というわけで以下は、あの日広田さんが語っていた演技と空間にかんする議論のわたし個人による整理と、考察です。広田さんがじかに口にした言葉も引用しつつ書きますが、当然ながら広田さんが語ったことそのままではなく、わたし自身の解釈と敷衍が入っています。興味を持たれた方は、その旨ご理解しつつ以下を読んでいただければ、と思います。……

 『ロクな死にかた』稽古中の広田さんの突然の長考──。しかし実はことの発端は、すでに『すばらしい日だ金がいる』の稽古場において潜在していたと顧みます。これは遅まきに気付いたことですが、文芸助手という謎役職として当時『すば金』稽古場日誌をときどき書いていたわたしは、そのなかで、広田さんの稽古中の次のようなオーダーの言葉を偶然拾っていたのでした。「今みたいな台詞をやるときには、俳優の身体によって、その言葉たちをこの空間に関係づけて欲しい。空間への働きかけがなければラジオでもいいってことになる。〈今・ここ〉について書いてはいない戯曲の言葉を、俳優が空間とやり取りして、〈今・ここ〉の対象にかかわらせるからこそ、面白さが生まれるんじゃないか……」──戯曲の言葉を俳優の身体によって、声によって、この空間へと関連づけること。〈今・ここ〉について書かれていない言葉を〈今・ここ〉の空間につなげること。いや、正直に言えば、わたしはあのときこの広田さんのオーダーをメモしながら、そこで何が目指されているのか、いったいどういう演技の方向性が理想とされているのか、ほとんど理解してはいませんでした。ただ字面を引き写しただけです。しかも広田さんは前置きで「こういうオーダーは今まで出したことがなかった」(ちなみにこの指示を受けていたのは広田さんとの付き合いも長い笠井里美さんでした)とも言っていたので、思うに、おそらく俳優の方々においても、これは即座に理解できるというようなオーダーではなかったのではないか。そして『すば金』の稽古場では言葉を俳優が空間に関連づける、という方向性については、それ以上掘り下げられることはさほどありませんでした。

 言葉を俳優が〈今・ここ〉の空間に関連づけること──。『ロクな死にかた』の稽古中にあらためて浮上して思索されたのは、この課題です。当該の問題のシーンでは、実際の舞台空間とは異なった空間、つまり〈今・ここ〉の相手役とか舞台美術とか小道具とかとはまったく切り離された場所について想像的に語るということが俳優に要求されるのですが、そのシーンへのダメ出しをしている最中に、広田さんの長考ははじまりました。

 そして、長考が終わってからの広田さんの話は、シーンの細部についてではなく、薮から棒に言語の持っている抽象化能力についてどう考えたらいいのか?という哲学的な話でした。思索というより疑問を発しながらの自問自答に近かった。例えば場所にまつわる情報について、われわれは言語を使うことで、いくらでも自分が今いる実際の空間とは関係なしに喋ることができてしまう……「アメリカではこうなっている、フランスではこうなっている」等々……アメリカやフランスがどの方角にあるかも把握しないで抽象的に語れてしまう……それはなぜか? わたしはとまどいました。俳優の方もとまどったと思います。最終的にめぐりめぐって広田さんの話は、あなたが異なった場所について語るときには単なる情報みたいになっていてこの空間に自分の言葉を関連づけられていない、というダメ出しに帰結するのですが、それを聞いた俳優の方が「それは、空間をちゃんとイメージできていないということですか?」と問うと、「いや、僕の言いたいのはそういうことではない」とも広田さんは言う。別の空間をイメージできていない、そんなことが問題なわけではない。つまり、〈今・ここ〉とは異なる空間・対象をありありと思い浮かべて、その映像から影響を受けてリアクションで演技をするというようなことが求められているわけではない。俳優がイメージしようがしまいが空間はここにある。しかし、この場所この空間に俳優が言葉を関連づけることができていない、それが問題なのである。……ここまでで、すでに相当話が込み入っていますが、ここからさらに話は込み入っていきます。

 なので、思い切ってざっくりとあそこで広田さんが俳優に要求しようとしていたことを、わたし自身の言葉で言い換えてみたいと思います。戯曲の言葉を、自分の身体と声を使ってこの空間に関連づけるということ──。その課題は、〈今・ここ〉について書かれているわけではない命題を、その命題がもともと持っている〈写像の図式〉を用いることによって、自分の身体の延長であるこの空間に置き換えてくれ、それによってこの空間自体を変形させるイリュージョンをつくり出してくれ、というオーダーであったのだと解釈できるのではないか。〈写像の図式〉とは何か。ここでは、言語的命題がそれが言い表わしている事態と対応するために最低限そなえていなければならない何らかの形式、という意味でこの言葉を使っています。例を挙げます。「机の上に本があって、その本の上にカップがある」という言語的命題を考えます。この命題を理解するために、古びた黒檀の机の右端にプルーストの分厚い長篇小説の第一巻が置いてあって、その上にウェジウッドブルーのティーカップが縁を光らせて乗っている……みたいな状況をまざまざとイメージしたりする必要はありません。ただ、机と本とカップというものが何であるかなんとなく分かっていて、それらがどういう位置関係にあれば「机の上に本がある」「本の上にカップがある」と言えるのか(言えないのか)が分かっていればいいだけです。その位置関係は可能的に無限にありますが、それらすべての事態について把握している必要も、もちろんない。つまり、「机の上に本があって、その本の上にカップがある」という命題の内容が現実のどういう事態の〈図式〉になっているか、それを理解していればいいだけです。それだけでも、われわれは「机の上に本があって、その本の上にカップがある」状況について正しく語ることができる。そしてこの考え方からすると言語的命題とは、無限の豊穣な可能性を持った現実の事態の細部を捨象してモデル化=形式化した、現実の抽象的な〈写像〉だということができるでしょう。広田さんが言及した言語の抽象化能力、われわれが言語を使って実際自分のいる時空間とは関係ないことについていくらでも喋ることができるのは、まさに、言語的命題の構成がありありとした具体的なイメージとは無縁の〈写像の図式〉によって支えられているということに由来していると言えます。さらにはわれわれは言語によって、「やまたのおろち」とか「脈動変光星」とか「一億と二千年後も愛してる」とか自分の実感とはかけ離れたものについて語ることさえできる。

 演劇に話をつなげます。俳優が〈今・ここ〉においては何もない素舞台で「今僕の目の前に机があり、その上に本があって、その上にカップがあります」と語るという状況を考えてみましょう。もしこれをただそのまま口にしただけでは、そういう情報を読み上げたにすぎません。空間は何も変わりはしない。また、ありありと黒壇の机が……プルーストの長篇小説が……ウェジウッドのティーカップが……などと具体的に脳裏に鮮明に思い浮かべながら語ってみたところで、さほど事態は変わりはしないでしょう。ならば目の前の空間を変形させるためには、何が必要か。おそらくは、自分が口にする命題がもともと持っている〈写像の図式〉を、自分の身体と声を使って〈今・ここ〉の時空間に投射しようという意識が、必要なのではないか。そしてその〈今・ここ〉に投射した〈図式〉を観客たちや共演者とのあいだで生き生きと共有することが、必要なのではないか。その際本来〈今・ここ〉とは関係のないはずの〈写像の図式〉を〈今・ここ〉の時空間に投射するための媒体は、現に〈今・ここ〉の限定された時空間に物理的に束縛されている俳優の身体以外ではあり得ません。……注意しなければならないのは、その〈投射〉は、あたかも机の上の本をさわっているかのようなパントマイムや、ティーカップを逐一指差すというような身振りではないだろうということです。〈投射〉のための分かり易い方法論などはない。ともかくも限られた時間内でその俳優の全身が生むノイズのような所作が、拳の力の入り具合が、ちょっとした目線の変化が、或いは声の抑揚が、間が、言いよどんだタイミングが──それらすべてが何らかの〈図式〉を元にして生まれてきているのだな、というリアリティだけが共有されればいい。だから、科白に動きが従っているわけでも、動きに科白が従属しているわけでもない。両者がシンクロしなければならない必然性もない。〈今・ここ〉の素舞台からは乖離した時空間的構成を持った〈図式〉がまずあって、そこから科白=言語的命題も身体の蠢きも生まれてきている、そして、それらを受け取った観客や共演者がそのなかに〈今・ここ〉とは異なった時空間の〈図式〉を直感してくれることによって、初めて時空間自体が大胆に変形するような演劇的イリュージョンがその場で共有されるということが、起こる。「この空間を俳優の想像力とか言葉の力によって変形させていくことができるはずだ……その作用っていうのがこのシーンでは必要とされていると思う……そういう力が今あなたは足りていない」。俳優が身体を使って戯曲の言葉をこの空間に関連づけなければならない、という広田さんのオーダーを、とりあえずわたしはそのように解釈してみたいと思います(広田さんの言う「想像力」というのも、鮮明にイメージする力などではなく、〈写像の図式〉を生き生きと捉え表出するための「構想力」のようなものだと解釈したい)。

 ところで、「机の上に本があって……」という今まで使ってきた例はちょっと視覚に寄りすぎているのですが、広田さんが実際に挙げた例は、「過去には僕のお爺さんのお爺さんがいた、未来には僕の孫の孫がいることだろう」みたいな命題でした。文字として読めばこれも単なる情報ですが、われわれはこれを、例えば「お爺さんの/お爺さんが/……」と手を上に持っていって段を区切りながら言ったり、「孫の/孫が/……」と手を下方におろして段を区切りながら言ったりします。そういう身振りをまじえて喋ることを日常的に行なっている。そのとき何をやっているかというと、別に自分の上方にありありと自分のお爺さんの顔を思い浮かべているわけではないし、自分の下方にありありと自分の孫を想像しているわけでもない。というか、経験上自分の上空にお爺さんが浮んでいたり自分の足元に孫が埋まっていたりしたためしは、ない。しかし何らかのイメージ(〈図式〉!)を用いて空間を意味づけながら語ろうとするときに、なぜか自然にそういう身振りが出てくる。もっと言えば、〈今・ここ〉の時空間とは直接関係のない自分を中心とした過去と未来にひろがる家系の歴史を、〈今・ここ〉の位置関係に置き換えて語ろうとするからこそ、それを〈今・ここ〉の空間に関連づけようとするからこそ、なぜか、そういう身振りが出てくる。そしてその身振りによって自分の言っていることが相手に理解されたときには、そこで共有される何かしらのイリュージョンがあり、たしかに、相手と共にいるこの空間が、変形している。つづけてさらに相手の方も「そのお爺さんってのは……」と言いながら手を上に持っていったりしたら、よりいっそう共有の度合いが高まりもする。もちろんあらゆるコミュニケーションにおいて、あらゆる言語的命題においてこんなふうな空間の変形が起こるわけではありませんが、日常的にわれわれはそういう表現伝達を行なっています。身体が空間にかかわるというのには、そういうかかわり方もある。或る意味、演劇的イリュージョンをつくり出すことも日常的な〈今・ここ〉の改変作用から出発してそれを拡張したようなものであるとすれば、日常に見られるそうした所作や表現方法を丁寧に踏まえることなしには、問題となっているシーンでも、言葉の力で、自分の身体と声によって舞台空間を変形させていくということはできないだろう。……というのが、広田さんの長い長い話の中核でした。

 ……あれっ、俺が言い換えたものより、広田さん自身の話の方が分かりやすくないか?……広田さんの話をそのまま書き写せば良かったんじゃ?……という根本的な疑念をふと抱いて、ここまでこの長文レポートを書いてきたわたしは今、慄然としています。とまれ、要点は、一方に舞台空間という実際には何の変形も起きようのない確固たる物理的存在があり、他方にいくらでも実際の時空間から遊離し得るわれわれの言語能力や想像力というものがあって、その両者の力を借りて〈今・ここ〉に何かを引き起こすことにこそ、俳優という存在の面白さの核心がある。ということになるでしょうか。わたしはその、俳優が自分の全身と声によって空間とかかわるということを、〈写像〉、〈図式〉、〈投射〉という概念を使って整理し直してみたわけですが、より分かりにくくなっていたら面目ありません。ただ、われわれが日常的にやたらに身振りをまじえて喋ったりするとき、その背後には〈写像の図式〉を相手に受け渡そうとする意識みたいなものがあるんじゃないかな、というのがわたしが広田さんの考察に付け加えたいと思っている論点ではあります。そして戯曲の読解から演技として何かの身振りや所作が出てくるというときには、いったんセリフを〈図式〉レベルにまでさかのぼって把握し、それを俳優自身の身体と、その延長である空間に〈投射〉するというプロセスが無意識に働いているとは言えないだろうか……。いや、これ以上はもう俳優ならぬ演出家ならぬ謎役職・文芸助手の単なる思考の遊戯になってしまいますから、止めますが。

 長々しい文章をここまでお読みくださりありがとう存じます。お疲れさまです。

     *  *  *

 最後に、この日稽古が終わってから客演の秋本雄基さん(アナログスイッチ所属 http://analogswitch.jimdo.com/member/秋本雄基/)と少しお話できたので、それをさくさくと書き起こして、ちょっとした出演者紹介に代えさせていただきます。

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───お疲れさまです! 少しのあいだ、秋本さんのお話をうかがってもよろしいですか?
秋本さん「いいですよー」

───実は、広田さんと話していて秋本さんの話題が出たときに、彼とは演技の何を良しとするかで共有しているものが多いみたいで、やりやすい、というふうに広田さんはおっしゃっていたんですが……それはご自身でも感じていますか。
秋本さん「うーん……僕がいちばん感じているのは、広田さんの台本って、僕には肌感が合うなってことです。覚えるにしても覚えやすいし、どう喋ればいいかっていうのが読んですぐに入ってくるんです。そのセリフを伝えるときにどう組み立てるかっていう、その組み立てがすごくやり易いっていうか。どこを切って、どこで間を空けて、っていうのが初見ですぐに入ってきます」

───なるほど。では台本の読解っていうのとはべつに、演技する上で意識しているという点ではどうでしょうか。秋本さんが演技する上で大事にしているのはどういうことか、とか。
秋本さん「うーん……受ける、受け取ることが重要だ、って広田さんはおっしゃるじゃないですか。僕は十九歳のときからずっとアマヤドリのWSは受けつづけていて、広田さんは参加者の一人ひとりに色々と言葉をくれるんですけど、そのとき言われた〈受け取る〉っていうことは、今でもすごい意識しています。相手とやり取りする上で」

───その、相手から受け取る、相手から何かを受け取ってリアクションで芝居する、というふうな意識があるとき、実際相手から受け取っている〈何か〉っていうのは、秋本さんのなかではどういう要素になるんでしょうか。
秋本さん「うーん……むずかしいです……。でも〈何を〉っていうより、色んなものを受け取る必要があるので、限定されたものではないです。そうですね……例えば人によって、距離感も違うじゃないですか、ここまで近づける人とか、全然近づけない人とかもいる。その距離感とかを探ってみたりとか。それをちょっと壊して近づいてみたりとか。あとは……普通の顔が怒ってるみたいな人もいるし、普通の顔が笑顔っていうような人もいる。セリフを全部こちらに当ててくる人もいれば、散らしたり逸らしたりする人もいる……」

───そういう、相手について感じられることは何でも感じて、それに応じて自分がどういう出方をするか、押すか引くかみたいなことも含めいろいろ変化させていくということでしょうか。
秋本さん「そうですね。舞台上では本当に敏感でありたいなって思います。相手役が変われば演技も全然変わりますし、それで変わるのが、僕は面白いと思えて。役と役でやっているけれど、結局は役者と役者でやっているし、それが組み合わせによって全然変わるっていうのが、僕は素敵だなって思うので、相手から〈受け取る〉っていうのは僕はやっぱりすごく大事にしているところです。……あとは、僕の出身劇団がコメディの劇団なので、なんか面白くやりたいなっていう根本の考えみたいなのはあります。もちろん相手とのかかわりのなかでですけれども、どう面白く読んでやろうかな、みたいな意識で台本を読んでみたりもします」

───『ロク死に』でもそういう面が見れたらいいですね。……色々と興味深い話をありがとうございました!


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アマヤドリ 春のロングラン&ツアー公演 
『ロクな死にかた』
2016 年4 月7 日(木)~18 日(月)@スタジオ空洞
2016 年4 月27 日(水)~5 月1 日(日)@シアター風姿花伝
2016 年5 月13 日(金)〜16 日(月)@せんだい演劇工房 10-BOX box-1
2016 年5 月27 日(金)〜30 日(月)@in→dependent theatre 1st
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