『ぬれぎぬ』稽古場レポート - 3月24日

2014年3月は24日の月曜日、劇団アマヤドリ主宰の広田さんのご厚意で『ぬれぎぬ』の稽古場見学をさせていただきました。以下は、その稽古の一見学者の立場からのレポートです。

周知のように、アマヤドリ2014「悪と自由」三部作第一弾『ぬれぎぬ』は、劇団員のみのキャスト構成で、来月4月の1日~23日の期間、目白のシアター風姿花伝にてロングラン公演を予定しています。この日3月24日は、初日まであと8日、小屋入りまであと3日という稽古も大詰めの段階で、最近遅筆の汚名を返上しつつある広田さんの『ぬれぎぬ』脚本は先週完本済み、ほぼ実際の舞台に近いセットを組んでの立ち稽古で、13時から深夜まで上演に向けて完成度を高めるための稽古を、がしがし行なっていました。以下の写真は13時よりさらに早い11時に稽古場に来て、或るシーンの抜き稽古をしていた糸山和則さんと笠井里美さんのお二人です。13時を過ぎてもしばらくはこの二人のシーンの稽古をしつこくやっていました。
nureginu01
さて、稽古の詳細をレポートする前に、『ぬれぎぬ』の脚本について少し書き記しておきます。というのも、見学者特権で公演前に完本した『ぬれぎぬ』を読むことができたのでした。さくっと断言します。傑作と言ってよいと思います。少なくとも自分が知っている広田淳一作品の中では、最良のものと感じます。『ぬれぎぬ』という平仮名4文字のタイトルから、昨年の“雨天決行”season.1 で上演された『うそつき』を連想される方もいらっしゃるかもしれませんが、少人数+ストイックな舞台装置という点で通底するところはありながらも、物語の複雑さ、人物の描き方の深さ、ダイアローグの繊細さ、場面設定の巧みさといった要素において、虚構のレベルとしては『ぬれぎぬ』の方が遥かに高い次元に達しています。しかもエピグラムに政治学者の丸山眞男の言葉が引かれているのが、まったく伊達ではない。『ぬれぎぬ』という作品および「悪と自由」三部作という副題に賭けられたテーマ性、そして同一の習慣や慣行や道徳を共有する共同体の中での「うち/よそ」の区別に基づくに過ぎない「セミパブリックな劇空間」(平田オリザ)に代わる、新たなトポス──「インディヴィデュアル/ソーシャルな劇空間」?──を構築しようとする広田さんの野心が、このエピグラムを必然のものとしている。私以外でこの日見学された方の中にも、「これ傑作でしょ」と口にしていた方がいました。私の価値判断のささやかな客観性を補強するため、その事実を書き添えておきます。

ただしテキストとして優れた戯曲が優れた舞台芸術へと昇華されるまでには、無視できない懸隔がある。それに、戯曲がマッシヴであればあるほど、役者への要求も比例して高度にならざるを得ない。実際、この日稽古を見学していても、まだまだ広田さんの規準では成立していないシーンが多々あるのだな、ということが伝わってきました。とくに抜き稽古においては、広田さんの頭の中のイメージと俳優の演技のニュアンスがズレる箇所では、かなりの時間を掛けて丁寧なダメ出しがつづけられます。
「『僕は誰も恨んではいません』──この科白の前後の重さが、ちょっと違うな。うーん、でもこれもまた難しい科白でさ、なんて言うんだろう……(考え込む)、ほんとに誰も恨んでないならこんなこと言う必要ないわけじゃん。だけどあえて言わなきゃいけない彼なりの歴史があるんだろう。『恨んでも仕方ないんだ。恨まないぞ』と自分に言い聞かせるための、『これは恨む筋合いのことではない』という整理が、彼にとって必要で、それはもうすでになされているわけだが、やはりこうやって『僕は誰も恨んではいません』と再び口にすることによって、それを更新しているわけだ。これを口にすること自体が彼にとって行為なんだ。事実として、単に放っておいてもいい状態として恨んでいないのではなく、むしろそのままだと恨んでしまいそうになるから、『恨もうとは思いません』と言っているわけで、この一言を言えるところに行くにはパワーが必要なはずだよ」。
「『いい思い出があるんですね』──うーん、難しいねこの辺りもね。……ちょっと優しく言い過ぎている。まあ前のシーンとのつながりで見ないと何とも言えないけれど、なんかちょっと優し過ぎるような気がするな。(考え込む)……優し過ぎるっていうか……うーん、甘やかしてるっていうか、相手を子供扱いするっていうニュアンスが乗り過ぎてる気がする。なんか、言うじゃん母親とか、『今日カナブン取ってきたんだぜ』って子供が自慢するのに対して、内心どうでもいいと思っていても『凄いねー』って。そういう感じになっちゃってるんだよね。もちろんそういう意味合いはあると思うんだけれど、今はそれに偏り過ぎちゃっている。もうちょっと相手を大人扱いした上での優しさだと良いかな。相手が傷ついていることは分かっているんだけど、それを見て見ぬ振りしてあげる優しさというか」。

とはいえ、脚本の中には、広田さんが直感で書いたためにまだ部分的にニュアンスを決め切っていない箇所もあるようです。そういう箇所では広田さんもダメ出しの最中でも長考し、リアルタイムに試行錯誤したり、俳優の意見を聞いたりしながら、やはりじっくりと時間を掛けて波長合わせをしていく。「難しいところだなー」「ここは考えていかなきゃならないところだなー」「うん、まあでも……うーん。そうだよなー……」。あるいは俳優からの問題提起を糸口に、広田さんも交えた全員での議論に自然に発展することもあります。「でも、なんか、いいですか? 感想言って。見てて、あたし的には……な感じを受けて、『無理じゃないですか、あれじゃ?』というふうな態度には見えないんです」「おっしゃっていることは分かるんだけれど……」「なんて言うんですか、今……ってやっているのが、……という態度につながってしまっている」「でも……って感じなのかな」「たぶん、彼がそういうふうに見えるっていうのは……」「さっき……って言ってたじゃん。それは間違いじゃないんだけれど……」「ああ、それはそうかもね。つまり……っていうことだよね」──基本的に議論をリードするのは広田さんではありますが、ともかく、その場にいる全員で闊達に発言しながら粘り強くテキストに向き合っていく。そういう時間帯が訪れることがしばしばです。以下の写真はキャスト総集合でミーティングの図。
nureginu02
正直、見学していて、小屋入りまであと三日なのに、一つひとつの細部に時間掛け過ぎじゃないかしら?と心配したのは事実です(ちなみにそのことを広田さんにちょっと告げてみたところ、「いやーでも『月の剥がれる』の時なんか、今の段階でも何も無いみたいな状況だったからねー」とにこやかに笑いながら言い放ち、即座に榊菜津美さんに「広田さん、比較対象! 比較対象!」と突っ込まれておりました)。おそらく、約一ヵ月のロングラン公演ということもあり、公演初日に完成度をマックス近くまで持って行くことは目指していないのではないかと、私見ですが思いました。『ぬれぎぬ』という作品は、プレビュー期間を通じても日に日に大胆に研磨され変化していくものなのだろうと、あえて予想します。そして、こちらの方が重要な視点ですが、そもそも広田さんは演出家として、テキストのニュアンスを決め切らないことを全然怖れていないように思えます。動線の整理はばしばし裁断していくけれども、最終的には演技のかなりの部分を俳優に任せている。考え方のベクトルや指針だけを提示した上で、俳優自身の中から良いものが出て来た場合には、それを積極的に拾っていこうとしている。アマヤドリの稽古場の多様な意見の出易い雰囲気から、そんなふうなことを、感じます。なにせ一見学者に過ぎない私にさえ、「つまらないかどうか率直に言っていただいてかまわないですよ」と意見を振られたぐらいですから。直線的に均等に完成度を高めていくよりは、ポイントポイントで解釈を深化させ、それを俳優たちが曲線的につないでクオリティを高めて行こうとするのを後押しする。まあ広田さんの演出スタイルをそんなふうに表現できるかもしれません。

この日、ラストまではやりませんでしたが、19時からはフィックスした動線を確認するための通し稽古も行なわれました。そして22時までダメ出しとそれに基づくディスカッションを細かく重ねて、稽古は終了。「食事は暇になったときを見計らって各自勝手に採る」という取り決めで、休憩らしい休憩は一度きりの、総員フル稼働の一日でした。下の写真は壁際にぴったり位置取って俳優たちの演技を注視している、主宰・広田淳一。
nureginu03
稽古場レポートは以上です。『ぬれぎぬ』の、テキスト=戯曲としての私の評価は上に書いたとおりですが、上演される作品としての『ぬれぎぬ』については、たった一日稽古場を見学しただけですから、軽率な評価を述べることは避けます。もとより、広田さんの演出の手管であった音響や詩的言語やノンバーバルな表現方法を、今作の上演ではかなり禁欲しています。したがって、本当に俳優の方々がテキストにどれだけ真摯に向き合い、いかに細部に神経を張り巡らせるかが、作品の出来不出来に直結することは間違いない。とにもかくにも、俳優のみなさまの奮闘と公演の無事をお祈りいたします。

なお以後、プレビュー期間中に広田さんにロング・インタビューを行ない、公演開始しての『ぬれぎぬ』ロングランについての見通しや、そもそも『ぬれぎぬ』という作品の本質について、さらには今後のアマヤドリの展望など、諸々伺ってみたいと思っています。そのインタビューもプレビュー期間後に公開予定ですので、ご期待ください。


→→→→追記:【ぬれぎぬ】広田淳一ロング・インタヴュー