(思い付きの突発企画! アマヤドリ本公演『銀髪』に出演してくださる客演陣の方からお一人を選んでカジュアル気分で人身御供。インタヴューを敢行させていただきます。二人目のサクリファイスは伊藤今人さん。ダンスエンターテイメント集団「梅棒」代表、演劇集団「ゲキバカ」メンバー、アマヤドリへの出演はひょっとこ乱舞時代を通じて今回6度目の、広田さんの信頼も厚い客演さんです。)
→インタヴュー Vol.1 武子太郎さん
───実はこのインタヴューの前準備として、2014年に、伊藤さんが『非常の階段』に出演された時に「梅棒オフィシャルブログ」に書かれたアマヤドリについての記事を読んできました(「アマヤドリを観に来て欲しい理由」http://amba.to/2hNPy07/「広田淳一という人」http://amba.to/2hBa6YR)。そこで伊藤さんが2007年版の『銀髪』に非常に衝撃を受けたということが記されていたので、差し支えなければ、その話からうかがっていきたいと存じます。もう十年近く前のことになりますけど、当時の衝撃を今あらためて語り直すことはできますでしょうか。
伊藤:できると思います。
僕が初めてひょっとこ乱舞(現:アマヤドリ)を見たのは、『銀髪』の一つ前の『でも時々動いてるわ』でした。その作品にも或る意味衝撃を受けて、というのも『でも時々動いてるわ』には舞台上で何にも凝ったことをしていない女性が一人で延々長科白を言うというシーンがあるんですが、それが演劇として成立しているという事実が、まず驚きでした。長科白を堂々と謳い上げるのでもなく、客席に向かって叫び立てるのでもなく、ただ坐って壁に寄り掛かりながら女性が──伊東沙保さんでしたが──独り言のように長科白を言う、それだけでシーンが成立するという発想がその当時の僕の頭の中に全然なかったので、それを観て、まずひょっとこ乱舞という劇団、広田さんのやっていることの質の高さに感銘を受けたんです。
でも、『でも時々動いてるわ』は女性しか出ていない作品だったんですね。そもそも僕がひょっとこ乱舞を観に行ったきっかけは、うちの劇団の先輩に「チョウソンハ(現:成河。2007年版『銀髪』では船場種吉役)っていう超ヤバい俳優がいるから見に行け」って言われたからだったんですが、『でも時々動いてるわ』には出演していなかった。しかし『銀髪』には出ると聞いて、じゃあ成河ってどんなもんじゃいっていう心構えで次の『銀髪』も観に行ったわけです。僕はその時、まだ顔も知りませんでした。だから『銀髪』の冒頭で維康という登場人物が主役みたいに出てきてバァーーッと喋るのを、最初、ああ、この人が成河さんなのかな、たしかに才能あるな、と思って観ていたところに……突然、種吉という人物がドンッと出てきて、「乗って!」という最初の科白を言う、その一言だけでもう、間違いなくこの人だ、この人が成河さんだ、と確信させられた。それくらい役者としてガツンと喰らったものがありました。
それまでも曲がりになりに演劇を男性としてやってきて、もちろん凄いな、上手いなと感じた俳優の方は多くいましたし、劇団の先輩方も上手くてずっと悔しい思いはしてきたんですけど、初めて見てから10分くらいでもう「この人には絶対かなわない」と痛感させられたのは、成河さんだけでした。上には上がいるということをまざまざと見せつけられて、敗北感を通り越して、リスペクトという意味でのめり込んでしまった。僕の二つ上ですし、年齢的にはそんなに変わらないんですが、「いつか追い付いてやる」と奮起する以前に「どうしたらこの人に勝てるんだろう?」と打ちのめされるくらいの衝撃があって。そんな俳優は後にも先にも成河さんしかいません。だからその初見で喰らった瞬間の衝撃というのが、僕にとって『銀髪』が大きな体験になっている理由ですね。
それから、成河さんを追い掛けつづけているんですけど……僕がアマヤドリのオーディションに受かったのは、それから数年後の『ブリキの町で彼女は海を見つけられたか』で、成河さんはちょうどその一つ前の作品で劇団を卒業されてしまっていて、すれ違いになって……。いまだに舞台上で共演という目標は達成できていない。それ以降、成河さんとは飲み会で会ったり、色んなところでお話させていただいて、お互い顔見知という間柄にはなっているんですが、実際に舞台上で勝負するというところまでは行けてなくて、僕が一方的に追い掛けつづけているという思いです。それは、ずっと目標としてありつづけています。
───その最初の成河さんとの出会いの衝撃、初見の印象というのは、その後成河さんを追うなかで変わっていったということはあったでしょうか。
伊藤:どうだろう……僕も、その後色んな経験をして価値観が変わったり、役者として成長したりということはあると思うのですが、久しぶりに成河さんの舞台を観たりすると、また何歩も先を行かれたという気がして、ずっと距離が開いたままだと感じるんですよね……。それもあの人の凄いところですけれども。
実際、この距離感を変えようにも、役者として稽古場でのぶつかり合いをしてみない限り分からないことが沢山あるだろうと感じます。一つ同じ作品を創りながら、成河さんとの演技観の違い、成河さんとの実力の違いというものを計ってみない限り。成河さんがその作品に対してどういうふうに取り組んでいて、どういうプロセスを踏んで舞台上での完成された演技プランに至っているのか、その過程を共有できるかできないかの差は大きい。一切を一人で作り上げてそれを稽古場でいきなり高いレベルで見せているのか、それとも共演者と切磋琢磨しながら役作りしていくプロセスがあるのか……あの人のあの芝居が出来上がるまでの過程というものに、触れたい。その思いがずっとある。今現在の、舞台上にいる成河さん、客席にいる俺という状態では、成河さんとの差を埋められているという実感はまったく持てないです。
───先程、一番最初にひょっとこ乱舞の作品を見た時に、長科白のシーンに感銘を受けたとおっしゃっていましたが、非常に興味深い着眼と感じました。広田さんの作品でまずその点に着目されるというのは独特のように思います。
伊藤:それは、自分が所属している劇団がエンタメ志向で、「常に会話と動きで常にお客さんを楽しませながら演じる」という当時の僕の方向性とのギャップが大きかったんだと思います。
その長科白のシーンでは、伊東沙保さんはお客さんを全く意識していないように見えるわけです。舞台奥に坐って、照明がぽんと当たっていて、独り言のようにずっと15分ぐらい語っているというだけのシーン。でもそうしてお客さんを置き去りにして語っているということをお客さんが集中して観ている。それでお客さんを集中させることができている。俺も集中できている。なぜだろう。今まで自分がやってきたこととは全然真逆のアプローチなのになんでこれが演劇として成立するんだろうっていうのが、大きな驚きでした。単純に女優さんのスキルなのか。演出の手管なのか。書かれた科白の内容か。こちらが何かを発してお客さんをエンターテインしないとお客さんの興味を惹き付けられないとそれまで思っていただけに、その長科白だけでお客さんを集中させられることの方法論が謎で、すごいな、と感じたんです。
───でもその謎に関しては、『ブリキの町で彼女は海を見つけられたか』以降、広田さんの現場に何度かたずさわることで、見えてきたものもあるのではないでしょうか。
伊藤:そうですね。広田さんの作品に参加することになり、まず稽古で言われたのが「全部捨てろ」ということでした。自分がそれまで持っていた芝居の概念は全然通用しなかった。広田さんがそう言われたことの意味は、僕がお客さんを惹き付けよう、このシーンを成立させようとしたりして使うテクニックや打算を一旦すべて排除しろ、ということだと僕は受け取りました。ただそこに居て、ただ受け取って、ただ語る。それさえちゃんとやれていればお客さんを惹き付けることはできるのだと。あの時伊東沙保さんがやっていたこともそういうことだったんだろうと……そのことに気付けた。その程度のことすら自分はちゃんとやれていなかったんだということにも気付けました。
その場にあるものをちゃんと受信して、相手にも受け渡すということの大事さ。ただ居てただ歩いてただ喋ってただ坐る、それをしっかりやることの大事さ。それまでの自分がどれほどやりたいことだけを優先して、ありもしないテクニックを誇示することにとらわれて、周りからの色んな信号を受け取れていなかったか。自分がやりたいことを自分勝手に発信して、それを相手が受け取ったかどうかも見ず、お客さんが何を見ているのかということも俺は受け取れていなかったんだなという衝撃……。本当に、広田さんの現場を通じて演技についての積み直しをやったという感じでしたね。それもまた価値観を変えられた、打ちのめされた経験でした。
───演出家としての広田さんということで言うと、伊藤さんが『非常の階段』の時に書かれたブログ記事で、広田さんから学んだことの一つに「演劇ならではの空間の使い方」を挙げているのですが、これについて詳しくうかがってもよいでしょうか。
伊藤:あらためて言葉にしようとすると、難しいですね……。
僕はダンスと演劇を並行してやってきたので、二つの空間の使い方の違いをよく知っているつもりなんです。そしてその二つは似て非なるものだと考えていた──とくに自分のやっている演劇がエンタメだったので、やる側からすると意外と違いがハッキリしていると感じていたんですね。ところが広田さんは、ダンス未経験のはずなのになぜかダンサー的な、コレオグラファー的な考え方を持っている。演者の身体の向き(面)のもつ効果であったり、ソロと群舞の違いだったり、あとは照明や演者の位置による空間の切り取り方、それらの変化によって空間の意味合いを次々と変えていく……演劇の演出家でそういうダンサー的な感性を有する人に出会ったのは、僕は広田さんが初めてだったんです。それまで僕はダンスと演劇に臨む姿勢というのを割と分けて考えていて、チャンネルを切り替えていたんですけれど、広田さんの演出する作品では一つの舞台空間のなかで双方を行き来する。物語としてその状況・人間関係をお客さんに見せるという演者の位置関係だったものが、突然混ざり合って、ダンスとして面白い空間を作りながら科白を喋るということも起こって……それまで僕が別のものだと認識してきた二つのものを自在に行き交うような空間の使い方をされるんですよね。凄い感性だなと思います。広田さんは劇作家、演劇の演出家であるにもかかわらず、ダンサー自身の感覚を熟知しているかのようで。本当に、演劇とダンスをどうミックスするかということについては、広田さんから多くを教えてもらいました。
───そのダンス的な感性というのは、広田さんの書かれる戯曲にも独自の特徴を与えていると思いますか。
伊藤:どうでしょう。そういう部分もあると思いますが、物語・言葉・人間関係の面白さをまずは戯曲に込めて、それを板の上どう実現するか、舞台空間をどう使うかという発想は、実際に演者を目の前にして発想している場合が多い気がします。いや、実際はどうか知らないですけど、広田さんは演者や劇場空間から刺激を受けて筆が進む人だと僕は思っているので。
───劇場入りしてからの時間の使い方に、広田さんは他の演出家とはどこか違うところがあったりもするのでしょうか。
伊藤:かなり違うと思います。劇場に入ってその空間や照明や音響、そして稽古を積んできた演者がそこに立った瞬間に、一度稽古場で完成したはずの作品をさらにさらに奥深いものにするアイディアが、ブワァーーーーッと加速度的に浮かんでくる人なんだろうと思う。空間にこだわるがゆえに、広田さんのなかで実際の劇場空間に突入した途端に止めどなく浮かんでくるものがあって、それを全部実現したくなっちゃうから、小屋入りしてからの作業も大変になってしまうという。そういう人なんだなと感じています。
───広田さんは戯曲を離れて、稽古場のライブ感のなかで見出していくアイディアも多いですね。
伊藤:だからこそ最終的にできあがるものが凄く「リアル」ですよね。嘘がないものになる。広田さんは、その役者が実際自分の書いた科白を口にしてみたらどういうことが起こるか、その役者の微細な個性だったり反応だったり、役者同士の相性だったり、それらを直に見て、そこからまたガーーーーッと刺激されて戯曲を書き直したり、演出を考えたりする。想像のなかだけ完成させて、それを役者に強制する、ということはしない。
だからスタッフさんに関しても、広田さんの想像を超える提案をしてくれる人の方が相性がいいんじゃないかなと思います。クリエイティヴでエゴの強い人の方が。広田さんに忠実な人じゃなくて、自分の書いた戯曲に対して照明側から音響側から積極的にアプローチしてくれる人の方が多分広田さんも面白がってやれる。絶対喧嘩もあるだろうけれど(笑)。
それは役者についてもそうですね。広田さんの言うことをただ忠実にやろうという、ただそれだけの役者は広田さんとやるのは向いてないと思う。広田さんがそう書いてくるんだったら俺はこう攻めてみよう、何も指示がないところでも自分だったらこうする、とか、広田さんにちゃんと意思表示できる役者の方が、上手く刺激し合って良い作品を作れるのだろうと思います。
───最後に、今回の再々演の『銀髪』に向けた話をうかがいたいです。まず、『銀髪』という戯曲自体を伊藤さんはどう見ているでしょうか。
伊藤:そうですね……もちろん最近の広田さんの作品の傾向とはまた違った作品です。違っているんですが、でもそれはさっきも言ったように、この作品が生み出された時に現場にいた人間の刺激によってこれが書かれているからで、劇団員の顔ぶれも大きく変わった昨今のアマヤドリの作品とは違いが出てきて当然とも言える。
2007年版の『銀髪』は座組に成河さんがいて、沙保さんがいて、橋本仁、西光カイさんがいて……という非常に個性的なメンツによって作られている。今のアマヤドリの劇団員よりもパワー派で芸達者な座組だったと思います。もともと『銀髪』は破天荒な戯曲で、役者のパワーとスピード感でグイグイ引っ張っていくような作品だと思うのですが、今のアマヤドリっていうのは、やっぱり草食系みたいな人間が揃っていて(聞き手・笑)──倉田さんとかは羊の皮を被ったライオンですけど(爆笑)。どちらかというと、繊細な表現やポエティックな語りを得意とする役者が揃っている。──広田作品も、そういう劇団にいる人間に合わせてか、より世相を反映していたり、平凡な人間が不条理な社会や倫理に振り回されたりというテイストが増していっているような気がします。にもかかわらず、今回、まったく座組の傾向が違う時に作った『銀髪』を今の劇団で、谷畑さんや武子さんや僕を呼んだ上で上演するということには、広田さんなりの考えがあると思います。
───お話を聞いていて思ったのは、その「考え」を或る程度推測するとしたら、広田さんには、最近のアマヤドリとは全然別のテイストの過去作品をこのメンバーでやってみることで、劇団の演劇創作の幅を広げようという意図があるのかもしれない……。
伊藤:広田さんはずっと『銀髪』をやりたかったんだと思うんです。僕も好きな作品だから「『銀髪』やらないんですか?」ということは広田さんに言ってました。でも、種吉をやらせられる人間が成河以外いないということを広田さんはずっとおっしゃっていた。それが見つかるまでは『銀髪』はやれないね、と。でも、広田さんも、このタイミングで“あえて”やってみようと思ったんじゃないかと。今回の上演を起爆剤にして、劇団員に奮起を促したいという考えもあるだろうと思います。男性が多い芝居なので、とくに劇団員の男には期待を掛けているんじゃないか。というか、また新たに育ってきた劇団員でやることで、あの作品がどう姿を変えるのか試したくなったのかな。
───今のアマヤドリにとって、かなり大きなチャレンジになりそうだと感じます。
伊藤:そうですね。僕としても、2007年版の映像は何度も観ていて、それに引っ張られる部分はあります。でも僕が『銀髪』の座組に入るのであれば、自分はこうしたい、自分にはこういうことが出来る、というのを広田さんに見せて、広田さんを刺激して、それが今回の上演のためのリライトに反映されて、また新たな『銀髪』が生み出されるというのが理想です。とりあえず突拍子も無いところからトライしてみようかなと考えているんですよ。色々見せたいんですよね。でも見てくれないという淋しさもあり(笑)。でもなんとかして広田さんを刺激して、自分がこの戯曲にいる意味というのを僕自身も見つけたいですし、広田さんにも、今回の創作のプロセスを通じて、一人一人の役者がいる意味、『銀髪』をこの座組の顔ぶれでやらなければならなかった必然性というものを見つけて欲しいと思っています。
→インタヴュー Vol.1 武子太郎さん
───実はこのインタヴューの前準備として、2014年に、伊藤さんが『非常の階段』に出演された時に「梅棒オフィシャルブログ」に書かれたアマヤドリについての記事を読んできました(「アマヤドリを観に来て欲しい理由」http://amba.to/2hNPy07/「広田淳一という人」http://amba.to/2hBa6YR)。そこで伊藤さんが2007年版の『銀髪』に非常に衝撃を受けたということが記されていたので、差し支えなければ、その話からうかがっていきたいと存じます。もう十年近く前のことになりますけど、当時の衝撃を今あらためて語り直すことはできますでしょうか。
伊藤:できると思います。
僕が初めてひょっとこ乱舞(現:アマヤドリ)を見たのは、『銀髪』の一つ前の『でも時々動いてるわ』でした。その作品にも或る意味衝撃を受けて、というのも『でも時々動いてるわ』には舞台上で何にも凝ったことをしていない女性が一人で延々長科白を言うというシーンがあるんですが、それが演劇として成立しているという事実が、まず驚きでした。長科白を堂々と謳い上げるのでもなく、客席に向かって叫び立てるのでもなく、ただ坐って壁に寄り掛かりながら女性が──伊東沙保さんでしたが──独り言のように長科白を言う、それだけでシーンが成立するという発想がその当時の僕の頭の中に全然なかったので、それを観て、まずひょっとこ乱舞という劇団、広田さんのやっていることの質の高さに感銘を受けたんです。
でも、『でも時々動いてるわ』は女性しか出ていない作品だったんですね。そもそも僕がひょっとこ乱舞を観に行ったきっかけは、うちの劇団の先輩に「チョウソンハ(現:成河。2007年版『銀髪』では船場種吉役)っていう超ヤバい俳優がいるから見に行け」って言われたからだったんですが、『でも時々動いてるわ』には出演していなかった。しかし『銀髪』には出ると聞いて、じゃあ成河ってどんなもんじゃいっていう心構えで次の『銀髪』も観に行ったわけです。僕はその時、まだ顔も知りませんでした。だから『銀髪』の冒頭で維康という登場人物が主役みたいに出てきてバァーーッと喋るのを、最初、ああ、この人が成河さんなのかな、たしかに才能あるな、と思って観ていたところに……突然、種吉という人物がドンッと出てきて、「乗って!」という最初の科白を言う、その一言だけでもう、間違いなくこの人だ、この人が成河さんだ、と確信させられた。それくらい役者としてガツンと喰らったものがありました。
それまでも曲がりになりに演劇を男性としてやってきて、もちろん凄いな、上手いなと感じた俳優の方は多くいましたし、劇団の先輩方も上手くてずっと悔しい思いはしてきたんですけど、初めて見てから10分くらいでもう「この人には絶対かなわない」と痛感させられたのは、成河さんだけでした。上には上がいるということをまざまざと見せつけられて、敗北感を通り越して、リスペクトという意味でのめり込んでしまった。僕の二つ上ですし、年齢的にはそんなに変わらないんですが、「いつか追い付いてやる」と奮起する以前に「どうしたらこの人に勝てるんだろう?」と打ちのめされるくらいの衝撃があって。そんな俳優は後にも先にも成河さんしかいません。だからその初見で喰らった瞬間の衝撃というのが、僕にとって『銀髪』が大きな体験になっている理由ですね。
それから、成河さんを追い掛けつづけているんですけど……僕がアマヤドリのオーディションに受かったのは、それから数年後の『ブリキの町で彼女は海を見つけられたか』で、成河さんはちょうどその一つ前の作品で劇団を卒業されてしまっていて、すれ違いになって……。いまだに舞台上で共演という目標は達成できていない。それ以降、成河さんとは飲み会で会ったり、色んなところでお話させていただいて、お互い顔見知という間柄にはなっているんですが、実際に舞台上で勝負するというところまでは行けてなくて、僕が一方的に追い掛けつづけているという思いです。それは、ずっと目標としてありつづけています。
───その最初の成河さんとの出会いの衝撃、初見の印象というのは、その後成河さんを追うなかで変わっていったということはあったでしょうか。
伊藤:どうだろう……僕も、その後色んな経験をして価値観が変わったり、役者として成長したりということはあると思うのですが、久しぶりに成河さんの舞台を観たりすると、また何歩も先を行かれたという気がして、ずっと距離が開いたままだと感じるんですよね……。それもあの人の凄いところですけれども。
実際、この距離感を変えようにも、役者として稽古場でのぶつかり合いをしてみない限り分からないことが沢山あるだろうと感じます。一つ同じ作品を創りながら、成河さんとの演技観の違い、成河さんとの実力の違いというものを計ってみない限り。成河さんがその作品に対してどういうふうに取り組んでいて、どういうプロセスを踏んで舞台上での完成された演技プランに至っているのか、その過程を共有できるかできないかの差は大きい。一切を一人で作り上げてそれを稽古場でいきなり高いレベルで見せているのか、それとも共演者と切磋琢磨しながら役作りしていくプロセスがあるのか……あの人のあの芝居が出来上がるまでの過程というものに、触れたい。その思いがずっとある。今現在の、舞台上にいる成河さん、客席にいる俺という状態では、成河さんとの差を埋められているという実感はまったく持てないです。
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───先程、一番最初にひょっとこ乱舞の作品を見た時に、長科白のシーンに感銘を受けたとおっしゃっていましたが、非常に興味深い着眼と感じました。広田さんの作品でまずその点に着目されるというのは独特のように思います。
伊藤:それは、自分が所属している劇団がエンタメ志向で、「常に会話と動きで常にお客さんを楽しませながら演じる」という当時の僕の方向性とのギャップが大きかったんだと思います。
その長科白のシーンでは、伊東沙保さんはお客さんを全く意識していないように見えるわけです。舞台奥に坐って、照明がぽんと当たっていて、独り言のようにずっと15分ぐらい語っているというだけのシーン。でもそうしてお客さんを置き去りにして語っているということをお客さんが集中して観ている。それでお客さんを集中させることができている。俺も集中できている。なぜだろう。今まで自分がやってきたこととは全然真逆のアプローチなのになんでこれが演劇として成立するんだろうっていうのが、大きな驚きでした。単純に女優さんのスキルなのか。演出の手管なのか。書かれた科白の内容か。こちらが何かを発してお客さんをエンターテインしないとお客さんの興味を惹き付けられないとそれまで思っていただけに、その長科白だけでお客さんを集中させられることの方法論が謎で、すごいな、と感じたんです。
───でもその謎に関しては、『ブリキの町で彼女は海を見つけられたか』以降、広田さんの現場に何度かたずさわることで、見えてきたものもあるのではないでしょうか。
伊藤:そうですね。広田さんの作品に参加することになり、まず稽古で言われたのが「全部捨てろ」ということでした。自分がそれまで持っていた芝居の概念は全然通用しなかった。広田さんがそう言われたことの意味は、僕がお客さんを惹き付けよう、このシーンを成立させようとしたりして使うテクニックや打算を一旦すべて排除しろ、ということだと僕は受け取りました。ただそこに居て、ただ受け取って、ただ語る。それさえちゃんとやれていればお客さんを惹き付けることはできるのだと。あの時伊東沙保さんがやっていたこともそういうことだったんだろうと……そのことに気付けた。その程度のことすら自分はちゃんとやれていなかったんだということにも気付けました。
その場にあるものをちゃんと受信して、相手にも受け渡すということの大事さ。ただ居てただ歩いてただ喋ってただ坐る、それをしっかりやることの大事さ。それまでの自分がどれほどやりたいことだけを優先して、ありもしないテクニックを誇示することにとらわれて、周りからの色んな信号を受け取れていなかったか。自分がやりたいことを自分勝手に発信して、それを相手が受け取ったかどうかも見ず、お客さんが何を見ているのかということも俺は受け取れていなかったんだなという衝撃……。本当に、広田さんの現場を通じて演技についての積み直しをやったという感じでしたね。それもまた価値観を変えられた、打ちのめされた経験でした。
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───演出家としての広田さんということで言うと、伊藤さんが『非常の階段』の時に書かれたブログ記事で、広田さんから学んだことの一つに「演劇ならではの空間の使い方」を挙げているのですが、これについて詳しくうかがってもよいでしょうか。
伊藤:あらためて言葉にしようとすると、難しいですね……。
僕はダンスと演劇を並行してやってきたので、二つの空間の使い方の違いをよく知っているつもりなんです。そしてその二つは似て非なるものだと考えていた──とくに自分のやっている演劇がエンタメだったので、やる側からすると意外と違いがハッキリしていると感じていたんですね。ところが広田さんは、ダンス未経験のはずなのになぜかダンサー的な、コレオグラファー的な考え方を持っている。演者の身体の向き(面)のもつ効果であったり、ソロと群舞の違いだったり、あとは照明や演者の位置による空間の切り取り方、それらの変化によって空間の意味合いを次々と変えていく……演劇の演出家でそういうダンサー的な感性を有する人に出会ったのは、僕は広田さんが初めてだったんです。それまで僕はダンスと演劇に臨む姿勢というのを割と分けて考えていて、チャンネルを切り替えていたんですけれど、広田さんの演出する作品では一つの舞台空間のなかで双方を行き来する。物語としてその状況・人間関係をお客さんに見せるという演者の位置関係だったものが、突然混ざり合って、ダンスとして面白い空間を作りながら科白を喋るということも起こって……それまで僕が別のものだと認識してきた二つのものを自在に行き交うような空間の使い方をされるんですよね。凄い感性だなと思います。広田さんは劇作家、演劇の演出家であるにもかかわらず、ダンサー自身の感覚を熟知しているかのようで。本当に、演劇とダンスをどうミックスするかということについては、広田さんから多くを教えてもらいました。
───そのダンス的な感性というのは、広田さんの書かれる戯曲にも独自の特徴を与えていると思いますか。
伊藤:どうでしょう。そういう部分もあると思いますが、物語・言葉・人間関係の面白さをまずは戯曲に込めて、それを板の上どう実現するか、舞台空間をどう使うかという発想は、実際に演者を目の前にして発想している場合が多い気がします。いや、実際はどうか知らないですけど、広田さんは演者や劇場空間から刺激を受けて筆が進む人だと僕は思っているので。
───劇場入りしてからの時間の使い方に、広田さんは他の演出家とはどこか違うところがあったりもするのでしょうか。
伊藤:かなり違うと思います。劇場に入ってその空間や照明や音響、そして稽古を積んできた演者がそこに立った瞬間に、一度稽古場で完成したはずの作品をさらにさらに奥深いものにするアイディアが、ブワァーーーーッと加速度的に浮かんでくる人なんだろうと思う。空間にこだわるがゆえに、広田さんのなかで実際の劇場空間に突入した途端に止めどなく浮かんでくるものがあって、それを全部実現したくなっちゃうから、小屋入りしてからの作業も大変になってしまうという。そういう人なんだなと感じています。
───広田さんは戯曲を離れて、稽古場のライブ感のなかで見出していくアイディアも多いですね。
伊藤:だからこそ最終的にできあがるものが凄く「リアル」ですよね。嘘がないものになる。広田さんは、その役者が実際自分の書いた科白を口にしてみたらどういうことが起こるか、その役者の微細な個性だったり反応だったり、役者同士の相性だったり、それらを直に見て、そこからまたガーーーーッと刺激されて戯曲を書き直したり、演出を考えたりする。想像のなかだけ完成させて、それを役者に強制する、ということはしない。
だからスタッフさんに関しても、広田さんの想像を超える提案をしてくれる人の方が相性がいいんじゃないかなと思います。クリエイティヴでエゴの強い人の方が。広田さんに忠実な人じゃなくて、自分の書いた戯曲に対して照明側から音響側から積極的にアプローチしてくれる人の方が多分広田さんも面白がってやれる。絶対喧嘩もあるだろうけれど(笑)。
それは役者についてもそうですね。広田さんの言うことをただ忠実にやろうという、ただそれだけの役者は広田さんとやるのは向いてないと思う。広田さんがそう書いてくるんだったら俺はこう攻めてみよう、何も指示がないところでも自分だったらこうする、とか、広田さんにちゃんと意思表示できる役者の方が、上手く刺激し合って良い作品を作れるのだろうと思います。
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───最後に、今回の再々演の『銀髪』に向けた話をうかがいたいです。まず、『銀髪』という戯曲自体を伊藤さんはどう見ているでしょうか。
伊藤:そうですね……もちろん最近の広田さんの作品の傾向とはまた違った作品です。違っているんですが、でもそれはさっきも言ったように、この作品が生み出された時に現場にいた人間の刺激によってこれが書かれているからで、劇団員の顔ぶれも大きく変わった昨今のアマヤドリの作品とは違いが出てきて当然とも言える。
2007年版の『銀髪』は座組に成河さんがいて、沙保さんがいて、橋本仁、西光カイさんがいて……という非常に個性的なメンツによって作られている。今のアマヤドリの劇団員よりもパワー派で芸達者な座組だったと思います。もともと『銀髪』は破天荒な戯曲で、役者のパワーとスピード感でグイグイ引っ張っていくような作品だと思うのですが、今のアマヤドリっていうのは、やっぱり草食系みたいな人間が揃っていて(聞き手・笑)──倉田さんとかは羊の皮を被ったライオンですけど(爆笑)。どちらかというと、繊細な表現やポエティックな語りを得意とする役者が揃っている。──広田作品も、そういう劇団にいる人間に合わせてか、より世相を反映していたり、平凡な人間が不条理な社会や倫理に振り回されたりというテイストが増していっているような気がします。にもかかわらず、今回、まったく座組の傾向が違う時に作った『銀髪』を今の劇団で、谷畑さんや武子さんや僕を呼んだ上で上演するということには、広田さんなりの考えがあると思います。
───お話を聞いていて思ったのは、その「考え」を或る程度推測するとしたら、広田さんには、最近のアマヤドリとは全然別のテイストの過去作品をこのメンバーでやってみることで、劇団の演劇創作の幅を広げようという意図があるのかもしれない……。
伊藤:広田さんはずっと『銀髪』をやりたかったんだと思うんです。僕も好きな作品だから「『銀髪』やらないんですか?」ということは広田さんに言ってました。でも、種吉をやらせられる人間が成河以外いないということを広田さんはずっとおっしゃっていた。それが見つかるまでは『銀髪』はやれないね、と。でも、広田さんも、このタイミングで“あえて”やってみようと思ったんじゃないかと。今回の上演を起爆剤にして、劇団員に奮起を促したいという考えもあるだろうと思います。男性が多い芝居なので、とくに劇団員の男には期待を掛けているんじゃないか。というか、また新たに育ってきた劇団員でやることで、あの作品がどう姿を変えるのか試したくなったのかな。
───今のアマヤドリにとって、かなり大きなチャレンジになりそうだと感じます。
伊藤:そうですね。僕としても、2007年版の映像は何度も観ていて、それに引っ張られる部分はあります。でも僕が『銀髪』の座組に入るのであれば、自分はこうしたい、自分にはこういうことが出来る、というのを広田さんに見せて、広田さんを刺激して、それが今回の上演のためのリライトに反映されて、また新たな『銀髪』が生み出されるというのが理想です。とりあえず突拍子も無いところからトライしてみようかなと考えているんですよ。色々見せたいんですよね。でも見てくれないという淋しさもあり(笑)。でもなんとかして広田さんを刺激して、自分がこの戯曲にいる意味というのを僕自身も見つけたいですし、広田さんにも、今回の創作のプロセスを通じて、一人一人の役者がいる意味、『銀髪』をこの座組の顔ぶれでやらなければならなかった必然性というものを見つけて欲しいと思っています。
〈了〉
* * *
アマヤドリ本公演
『銀髪』@本多劇場
2017年1月26日(木) 〜1月31日(火)
http://amayadori.co.jp/archives/8910
http://amayadori.co.jp/ginpatsu
アマヤドリ本公演
『銀髪』@本多劇場
2017年1月26日(木) 〜1月31日(火)
http://amayadori.co.jp/archives/8910
http://amayadori.co.jp/ginpatsu