アマヤドリ 稽古場ブログ

東京を拠点にするアマヤドリの劇団員・出演者によるブログです!

December 2016

(思い付きの突発企画! アマヤドリ本公演『銀髪』に出演してくださる客演陣の方からお一人を選んでカジュアル気分で人身御供。インタヴューを敢行させていただきます。二人目のサクリファイスは伊藤今人さん。ダンスエンターテイメント集団「梅棒」代表、演劇集団「ゲキバカ」メンバー、アマヤドリへの出演はひょっとこ乱舞時代を通じて今回6度目の、広田さんの信頼も厚い客演さんです。)
インタヴュー Vol.1 武子太郎さん


itouimajin

───実はこのインタヴューの前準備として、2014年に、伊藤さんが『非常の階段』に出演された時に「梅棒オフィシャルブログ」に書かれたアマヤドリについての記事を読んできました(「アマヤドリを観に来て欲しい理由」http://amba.to/2hNPy07/「広田淳一という人」http://amba.to/2hBa6YR)。そこで伊藤さんが2007年版の『銀髪』に非常に衝撃を受けたということが記されていたので、差し支えなければ、その話からうかがっていきたいと存じます。もう十年近く前のことになりますけど、当時の衝撃を今あらためて語り直すことはできますでしょうか。

伊藤:できると思います。
 僕が初めてひょっとこ乱舞(現:アマヤドリ)を見たのは、『銀髪』の一つ前の『でも時々動いてるわ』でした。その作品にも或る意味衝撃を受けて、というのも『でも時々動いてるわ』には舞台上で何にも凝ったことをしていない女性が一人で延々長科白を言うというシーンがあるんですが、それが演劇として成立しているという事実が、まず驚きでした。長科白を堂々と謳い上げるのでもなく、客席に向かって叫び立てるのでもなく、ただ坐って壁に寄り掛かりながら女性が──伊東沙保さんでしたが──独り言のように長科白を言う、それだけでシーンが成立するという発想がその当時の僕の頭の中に全然なかったので、それを観て、まずひょっとこ乱舞という劇団、広田さんのやっていることの質の高さに感銘を受けたんです。
 でも、『でも時々動いてるわ』は女性しか出ていない作品だったんですね。そもそも僕がひょっとこ乱舞を観に行ったきっかけは、うちの劇団の先輩に「チョウソンハ(現:成河。2007年版『銀髪』では船場種吉役)っていう超ヤバい俳優がいるから見に行け」って言われたからだったんですが、『でも時々動いてるわ』には出演していなかった。しかし『銀髪』には出ると聞いて、じゃあ成河ってどんなもんじゃいっていう心構えで次の『銀髪』も観に行ったわけです。僕はその時、まだ顔も知りませんでした。だから『銀髪』の冒頭で維康という登場人物が主役みたいに出てきてバァーーッと喋るのを、最初、ああ、この人が成河さんなのかな、たしかに才能あるな、と思って観ていたところに……突然、種吉という人物がドンッと出てきて、「乗って!」という最初の科白を言う、その一言だけでもう、間違いなくこの人だ、この人が成河さんだ、と確信させられた。それくらい役者としてガツンと喰らったものがありました。
 それまでも曲がりになりに演劇を男性としてやってきて、もちろん凄いな、上手いなと感じた俳優の方は多くいましたし、劇団の先輩方も上手くてずっと悔しい思いはしてきたんですけど、初めて見てから10分くらいでもう「この人には絶対かなわない」と痛感させられたのは、成河さんだけでした。上には上がいるということをまざまざと見せつけられて、敗北感を通り越して、リスペクトという意味でのめり込んでしまった。僕の二つ上ですし、年齢的にはそんなに変わらないんですが、「いつか追い付いてやる」と奮起する以前に「どうしたらこの人に勝てるんだろう?」と打ちのめされるくらいの衝撃があって。そんな俳優は後にも先にも成河さんしかいません。だからその初見で喰らった瞬間の衝撃というのが、僕にとって『銀髪』が大きな体験になっている理由ですね。
 それから、成河さんを追い掛けつづけているんですけど……僕がアマヤドリのオーディションに受かったのは、それから数年後の『ブリキの町で彼女は海を見つけられたか』で、成河さんはちょうどその一つ前の作品で劇団を卒業されてしまっていて、すれ違いになって……。いまだに舞台上で共演という目標は達成できていない。それ以降、成河さんとは飲み会で会ったり、色んなところでお話させていただいて、お互い顔見知という間柄にはなっているんですが、実際に舞台上で勝負するというところまでは行けてなくて、僕が一方的に追い掛けつづけているという思いです。それは、ずっと目標としてありつづけています。

───その最初の成河さんとの出会いの衝撃、初見の印象というのは、その後成河さんを追うなかで変わっていったということはあったでしょうか。

伊藤:どうだろう……僕も、その後色んな経験をして価値観が変わったり、役者として成長したりということはあると思うのですが、久しぶりに成河さんの舞台を観たりすると、また何歩も先を行かれたという気がして、ずっと距離が開いたままだと感じるんですよね……。それもあの人の凄いところですけれども。
 実際、この距離感を変えようにも、役者として稽古場でのぶつかり合いをしてみない限り分からないことが沢山あるだろうと感じます。一つ同じ作品を創りながら、成河さんとの演技観の違い、成河さんとの実力の違いというものを計ってみない限り。成河さんがその作品に対してどういうふうに取り組んでいて、どういうプロセスを踏んで舞台上での完成された演技プランに至っているのか、その過程を共有できるかできないかの差は大きい。一切を一人で作り上げてそれを稽古場でいきなり高いレベルで見せているのか、それとも共演者と切磋琢磨しながら役作りしていくプロセスがあるのか……あの人のあの芝居が出来上がるまでの過程というものに、触れたい。その思いがずっとある。今現在の、舞台上にいる成河さん、客席にいる俺という状態では、成河さんとの差を埋められているという実感はまったく持てないです。

*    *    *

───先程、一番最初にひょっとこ乱舞の作品を見た時に、長科白のシーンに感銘を受けたとおっしゃっていましたが、非常に興味深い着眼と感じました。広田さんの作品でまずその点に着目されるというのは独特のように思います。

伊藤:それは、自分が所属している劇団がエンタメ志向で、「常に会話と動きで常にお客さんを楽しませながら演じる」という当時の僕の方向性とのギャップが大きかったんだと思います。
 その長科白のシーンでは、伊東沙保さんはお客さんを全く意識していないように見えるわけです。舞台奥に坐って、照明がぽんと当たっていて、独り言のようにずっと15分ぐらい語っているというだけのシーン。でもそうしてお客さんを置き去りにして語っているということをお客さんが集中して観ている。それでお客さんを集中させることができている。俺も集中できている。なぜだろう。今まで自分がやってきたこととは全然真逆のアプローチなのになんでこれが演劇として成立するんだろうっていうのが、大きな驚きでした。単純に女優さんのスキルなのか。演出の手管なのか。書かれた科白の内容か。こちらが何かを発してお客さんをエンターテインしないとお客さんの興味を惹き付けられないとそれまで思っていただけに、その長科白だけでお客さんを集中させられることの方法論が謎で、すごいな、と感じたんです。

───でもその謎に関しては、『ブリキの町で彼女は海を見つけられたか』以降、広田さんの現場に何度かたずさわることで、見えてきたものもあるのではないでしょうか。

伊藤:そうですね。広田さんの作品に参加することになり、まず稽古で言われたのが「全部捨てろ」ということでした。自分がそれまで持っていた芝居の概念は全然通用しなかった。広田さんがそう言われたことの意味は、僕がお客さんを惹き付けよう、このシーンを成立させようとしたりして使うテクニックや打算を一旦すべて排除しろ、ということだと僕は受け取りました。ただそこに居て、ただ受け取って、ただ語る。それさえちゃんとやれていればお客さんを惹き付けることはできるのだと。あの時伊東沙保さんがやっていたこともそういうことだったんだろうと……そのことに気付けた。その程度のことすら自分はちゃんとやれていなかったんだということにも気付けました。
 その場にあるものをちゃんと受信して、相手にも受け渡すということの大事さ。ただ居てただ歩いてただ喋ってただ坐る、それをしっかりやることの大事さ。それまでの自分がどれほどやりたいことだけを優先して、ありもしないテクニックを誇示することにとらわれて、周りからの色んな信号を受け取れていなかったか。自分がやりたいことを自分勝手に発信して、それを相手が受け取ったかどうかも見ず、お客さんが何を見ているのかということも俺は受け取れていなかったんだなという衝撃……。本当に、広田さんの現場を通じて演技についての積み直しをやったという感じでしたね。それもまた価値観を変えられた、打ちのめされた経験でした。

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───演出家としての広田さんということで言うと、伊藤さんが『非常の階段』の時に書かれたブログ記事で、広田さんから学んだことの一つに「演劇ならではの空間の使い方」を挙げているのですが、これについて詳しくうかがってもよいでしょうか。

伊藤:あらためて言葉にしようとすると、難しいですね……。
 僕はダンスと演劇を並行してやってきたので、二つの空間の使い方の違いをよく知っているつもりなんです。そしてその二つは似て非なるものだと考えていた──とくに自分のやっている演劇がエンタメだったので、やる側からすると意外と違いがハッキリしていると感じていたんですね。ところが広田さんは、ダンス未経験のはずなのになぜかダンサー的な、コレオグラファー的な考え方を持っている。演者の身体の向き(面)のもつ効果であったり、ソロと群舞の違いだったり、あとは照明や演者の位置による空間の切り取り方、それらの変化によって空間の意味合いを次々と変えていく……演劇の演出家でそういうダンサー的な感性を有する人に出会ったのは、僕は広田さんが初めてだったんです。それまで僕はダンスと演劇に臨む姿勢というのを割と分けて考えていて、チャンネルを切り替えていたんですけれど、広田さんの演出する作品では一つの舞台空間のなかで双方を行き来する。物語としてその状況・人間関係をお客さんに見せるという演者の位置関係だったものが、突然混ざり合って、ダンスとして面白い空間を作りながら科白を喋るということも起こって……それまで僕が別のものだと認識してきた二つのものを自在に行き交うような空間の使い方をされるんですよね。凄い感性だなと思います。広田さんは劇作家、演劇の演出家であるにもかかわらず、ダンサー自身の感覚を熟知しているかのようで。本当に、演劇とダンスをどうミックスするかということについては、広田さんから多くを教えてもらいました。

───そのダンス的な感性というのは、広田さんの書かれる戯曲にも独自の特徴を与えていると思いますか。

伊藤:どうでしょう。そういう部分もあると思いますが、物語・言葉・人間関係の面白さをまずは戯曲に込めて、それを板の上どう実現するか、舞台空間をどう使うかという発想は、実際に演者を目の前にして発想している場合が多い気がします。いや、実際はどうか知らないですけど、広田さんは演者や劇場空間から刺激を受けて筆が進む人だと僕は思っているので。

───劇場入りしてからの時間の使い方に、広田さんは他の演出家とはどこか違うところがあったりもするのでしょうか。

伊藤:かなり違うと思います。劇場に入ってその空間や照明や音響、そして稽古を積んできた演者がそこに立った瞬間に、一度稽古場で完成したはずの作品をさらにさらに奥深いものにするアイディアが、ブワァーーーーッと加速度的に浮かんでくる人なんだろうと思う。空間にこだわるがゆえに、広田さんのなかで実際の劇場空間に突入した途端に止めどなく浮かんでくるものがあって、それを全部実現したくなっちゃうから、小屋入りしてからの作業も大変になってしまうという。そういう人なんだなと感じています。

───広田さんは戯曲を離れて、稽古場のライブ感のなかで見出していくアイディアも多いですね。

伊藤:だからこそ最終的にできあがるものが凄く「リアル」ですよね。嘘がないものになる。
広田さんは、その役者が実際自分の書いた科白を口にしてみたらどういうことが起こるか、その役者の微細な個性だったり反応だったり、役者同士の相性だったり、それらを直に見て、そこからまたガーーーーッと刺激されて戯曲を書き直したり、演出を考えたりする。想像のなかだけ完成させて、それを役者に強制する、ということはしない。
 だからスタッフさんに関しても、広田さんの想像を超える提案をしてくれる人の方が相性がいいんじゃないかなと思います。クリエイティヴでエゴの強い人の方が。広田さんに忠実な人じゃなくて、自分の書いた戯曲に対して照明側から音響側から積極的にアプローチしてくれる人の方が多分広田さんも面白がってやれる。絶対喧嘩もあるだろうけれど(笑)。
 それは役者についてもそうですね。広田さんの言うことをただ忠実にやろうという、ただそれだけの役者は広田さんとやるのは向いてないと思う。広田さんがそう書いてくるんだったら俺はこう攻めてみよう、何も指示がないところでも自分だったらこうする、とか、広田さんにちゃんと意思表示できる役者の方が、上手く刺激し合って良い作品を作れるのだろうと思います。

*    *    *

───最後に、今回の再々演の『銀髪』に向けた話をうかがいたいです。まず、『銀髪』という戯曲自体を伊藤さんはどう見ているでしょうか。

伊藤:そうですね……もちろん最近の広田さんの作品の傾向とはまた違った作品です。違っているんですが、でもそれはさっきも言ったように、この作品が生み出された時に現場にいた人間の刺激によってこれが書かれているからで、劇団員の顔ぶれも大きく変わった昨今のアマヤドリの作品とは違いが出てきて当然とも言える。
 2007年版の『銀髪』は座組に成河さんがいて、沙保さんがいて、橋本仁、西光カイさんがいて……という非常に個性的なメンツによって作られている。今のアマヤドリの劇団員よりもパワー派で芸達者な座組だったと思います。もともと『銀髪』は破天荒な戯曲で、役者のパワーとスピード感でグイグイ引っ張っていくような作品だと思うのですが、今のアマヤドリっていうのは、やっぱり草食系みたいな人間が揃っていて(聞き手・笑)──倉田さんとかは羊の皮を被ったライオンですけど(爆笑)。どちらかというと、繊細な表現やポエティックな語りを得意とする役者が揃っている。──広田作品も、そういう劇団にいる人間に合わせてか、より世相を反映していたり、平凡な人間が不条理な社会や倫理に振り回されたりというテイストが増していっているような気がします。にもかかわらず、今回、まったく座組の傾向が違う時に作った『銀髪』を今の劇団で、谷畑さんや武子さんや僕を呼んだ上で上演するということには、広田さんなりの考えがあると思います。

───お話を聞いていて思ったのは、その「考え」を或る程度推測するとしたら、広田さんには、最近のアマヤドリとは全然別のテイストの過去作品をこのメンバーでやってみることで、劇団の演劇創作の幅を広げようという意図があるのかもしれない……。

伊藤:広田さんはずっと『銀髪』をやりたかったんだと思うんです。僕も好きな作品だから「『銀髪』やらないんですか?」ということは広田さんに言ってました。でも、種吉をやらせられる人間が成河以外いないということを広田さんはずっとおっしゃっていた。それが見つかるまでは『銀髪』はやれないね、と。でも、広田さんも、このタイミングで“あえて”やってみようと思ったんじゃないかと。今回の上演を起爆剤にして、劇団員に奮起を促したいという考えもあるだろうと思います。男性が多い芝居なので、とくに劇団員の男には期待を掛けているんじゃないか。というか、また新たに育ってきた劇団員でやることで、あの作品がどう姿を変えるのか試したくなったのかな。

───今のアマヤドリにとって、かなり大きなチャレンジになりそうだと感じます。

伊藤:そうですね。僕としても、2007年版の映像は何度も観ていて、それに引っ張られる部分はあります。でも僕が『銀髪』の座組に入るのであれば、自分はこうしたい、自分にはこういうことが出来る、というのを広田さんに見せて、広田さんを刺激して、それが今回の上演のためのリライトに反映されて、また新たな『銀髪』が生み出されるというのが理想です。とりあえず突拍子も無いところからトライしてみようかなと考えているんですよ。色々見せたいんですよね。でも見てくれないという淋しさもあり(笑)。でもなんとかして広田さんを刺激して、自分がこの戯曲にいる意味というのを僕自身も見つけたいですし、広田さんにも、今回の創作のプロセスを通じて、一人一人の役者がいる意味、『銀髪』をこの座組の顔ぶれでやらなければならなかった必然性というものを見つけて欲しいと思っています。
〈了〉

*    *    *


アマヤドリ本公演
『銀髪』@本多劇場
2017年1月26日(木) 〜1月31日(火)
http://amayadori.co.jp/archives/8910
http://amayadori.co.jp/ginpatsu

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(思い付きの突発企画! アマヤドリ本公演『銀髪』に出演してくださる客演陣に向かって白羽の矢をビュンビュン飛ばし、頭に矢がささった方に、容赦なくインタヴューを敢行します。最初に白羽の矢が立ったのは、武子太郎さん。現在劇団クロムモリブデン所属、劇団所属前からもフリーの役者として年6〜8本ペースで芝居に出演されていた演劇経験値の高いベテラン。アマヤドリへの参加は今作が初になります。)


takeshitarou

───今回は完全に初めましての状態からのインタヴューになってしまうのですが、実は、事前に広田さんから武子さんのことを少しうかがってきました。広田さん曰く、このあいだの『月の剥がれる』を観に来てくださった時に、観劇後武子さんが広田さんに話されたことが非常に興味深く、それが『銀髪』出演オファーのきっかけになったとのことでした。その時の広田さんとの会話の内容というのは、覚えておられるでしょうか。

武子:『月の剥がれる』を観終わった後に、中日打ち上げのような形で広田さんと出演者の方数名と一緒に飲みに行って、みんなで話しましたね。

───そのお話の内容が広田さんには凄く面白かったそうです。『月の剥がれる』はまったく予備知識なしで観劇されたんでしょうか。

武子:そうですね。その前に僕が広田さんの作品を観たのはもうひょっとこ乱舞時代のことで、それ以来アマヤドリの本公演は観ていなかったんですが、『月の剥がれる』には今まで共演してきた人が大勢出演していたので、それもあって久々に観たんです。
 それで、その飲み会の席で話したことはなんとなく覚えているんですけど……どちらかというとネガティヴなことの方が多かった気がします。「いやー面白かったです!」「僕はあのシーンが超好きでした!」みたいな感じではなくて、「あそこは何でああなったんでしょう」「あのシーンはもっとこうしたら良かったんじゃないか」というような話をすごくした気がします。むしろ、あんなネガティヴなことを話したのになんで誘われたんだろう俺、って思ってました(笑)。

───その時武子さんが広田さんに対して示した疑問というのが、広田さんにとっては鋭い分析と感じられたのだと思うのですが、それを、今あらためて語ることはできますでしょうか。

武子:うーん。まず、僕はアマヤドリをそんな多く観ているわけではないけど、という前提で言うと……『月の剥がれる』は一見すると、主宰・劇団員の表現したいことは言葉の美しさだったり、身体表現だったり、展開の複雑さであったりというふうに見えるんですが、根っこのところではすごくシンプルなんだなと感じました。根っこのところでは、感情があるかないか、ちゃんと届けているか、相手が動かされているか、といったわりと感情的な部分を大事にしている。理知ではなくて感情の方でいくんだなと。やっぱり広田さんって頭もいいし弁も立つし語彙力もあるし、普段は理論的に話しているイメージなんですけど、演出する上で目指しているものはすごく内側の部分で、結果それが外に表われるということを気にされているんだなと思いました。

───『月の剥がれる』での役者の演技を見てそう感じられたんですね。

武子:もちろん上手い人と下手な人で差はありましたし、全員が要求されているレベルに達していたのではなかっただろうと思いますが、全体で目指そうとしているものは、同じところに向かっていて、ここに向かいたいんだなというのがはっきりしていたので、その点では好感を持ってみようと思える印象はあったんです。
 ただ、難しい言い方になりますけど、個々のレベルの底上げは絶対に必要だな、と。単純に劇団員だけをとってもまだ差がすごくあるので。飲み会の時にもそういう話をしたと記憶しています。結構具体的に、名指しで、誰々の、何々役の、あのシーン、みたいに。『月の剥がれる』の全体像として何をやろうとしているかは分かるのだけれど、個々の集合体の、その個の部分があともう一歩っていうところが多かったと僕は見ていて、あの長時間を見せるためにどのシーンを切り取っても高いレベルにあるという状態までは達していなかった。ワンシーンワンシーン、一言一言を切り取った時の個の能力があと一歩足りていない。サッカーで言うと、オシムサッカーとしてはこういう戦術で行きたいっていうのは分かるんですけど、一対一の能力、弾際の強さがまだまだで、この状態でブラジルと戦って大丈夫なのか、と。でもそこが伸びてくるとアマヤドリは化けるだろうなという雰囲気はあります、構想としては他にないような壮大なことをやろうとしているので。『月の剥がれる』についても、もっとこれがクオリティ高くなったものを観たいなっていうのが、率直な感想でした。

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───先程武子さんがおっしゃった、個の一対一の能力/全体でのオシム戦術という対比はサッカーの比喩なのですけど、この「戦術」というのを、さらに言葉にして語っていただけるでしょうか。舞台芸術上のストラテジーというのはどういうものなのか。

武子:そうですね……僕自身が色んなお芝居や劇団にかかわってきた経験から言うと、まず、ナンセンスの要素が入ったお芝居っていうのは「ディズニーランド」として捉えることができると思っているんです。それ以前の大前提として、演劇も演技も、基本の大枠は嘘です。どれだけ役になりきっても、すごくリアルに演じたとしても、どんなに深く役作りを突き詰めても、科白はあらかじめ決まっているわけで、自分は当の人物そのものではないわけで、「それはフィクションだ」と言われたら反論はできない。でも、その前提の上で、一つの演劇作品、一つの劇団において一番大事にされているリアリティって何だろうということを考えてみるんです、僕が新しい現場に行った時には。
 その作品・劇団が一番大事にしているリアリティ。たとえば「ディズニーランド」であれば、ネズミが喋っている時点で大嘘なわけですけれど、それを指摘して「嘘だ」「リアリティがない」と文句を言いたがる人はいないと思う。ネズミは言葉を喋らないということがディズニーランドにとって大事なリアリティではないから。そうではなくて、ディズニーランドにとっての「リアリティがない」っていうのは、ミッキーマウスが二匹いたり、着ぐるみのジッパーが開いていたり、ということであったりする。そこでお客さんに「嘘」を見せないことをディズニーランドは大事にしていて、そのキャラクターがそこに実在しているという夢の世界をお客さんに体験させることによって、お客さんに満足を与えている。ディズニーランドがこだわっていて気に掛けている「リアリティ」というのは特にその点に存するわけです。
 当然ながら、ネズミは喋らない、チューチュー鳴いているだけのはずだ、ということを気に掛ける「リアリティ」もあり得ます。そこは劇団によってのカラーの違いになる。でもアマヤドリはやはりナンセンス要素の入っている劇団だと思うので──現代ないし過去の現実をそのまま再現する芝居をやっているわけではないと思うので──まずは一種の「ディズニーランド」として捉えてみて、どこで嘘をついてよくて、どこで嘘をついてはいけないのか、を稽古しながら探っていくことになります。ここはどんなディズニーランドなんだろう?っていうことを。

───その、劇団によって異なるリアリティの基準というのが、全体として目指している「戦術」の基礎になるわけですね。

武子:今僕はクロムモリブデンという劇団に入っているんですけど、それまでは十年ぐらいフリーで芝居をして、色んなところに選り好みをせず出ていて──大所帯もありましたし、すごい少人数の芝居も、コントもあればコメディもあれば、ナンセンスもアングラもあったりで、ありとあらゆる芝居に出ていた時期があったんです。その時に、色んな主宰、色んな劇団に出会うなかで、一番最初に気にし始めたのがそこでした。その主宰、その劇団がやりたいことと大事にしているリアリティは一体何なのかを探って、それと自分ができることやりたいことを擦り合せたり、自分が何を提示できるかを考えたりして、一ヵ月二ヵ月の稽古のための指標をまず作るということを、いつしかやるようになっていたと顧みます。
 あとは……「戦術」ということで言えば、今回の座組は大所帯ですから、全体の共通認識っていうのがかなり重要になってくると思います。すべての価値観を一致させられるわけではないにしても、少なくとも同じポイントを見ていて、全員同じように広田さんの言葉を聞いているという状態がベースとして必要だろうと思う。これだけの大所帯で、全員が同じシーンに出るわけではないし、全員が同じ比率で舞台に出るわけではないから、各々はどうしても舞台上でばらばらに散ってしまう。それでも、裏にはけているあいだにも、同じヴィジョン、同じ認識を維持しつづけて、次に出てきた時にそれを繋げていくことができるっていうのが、長い芝居をやる、大人数の芝居をやる上で大事なことだと考えています。今舞台上に出ている人だけではないところで何かが繋がっていくということが。

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───話は変わって、ここまでお話を聞いていても感じる武子さんの役者としての経験値の高さ、ということに関連して、武子さんが今年の8月頭に実施した「本読み」のワークショップ(http://bit.ly/2gZAquV)についてうかがってみたいです。「本読み」のワークショップというのは珍しい気がしますが、どのような内容だったのでしょうか。

武子:あの時にやったのは……俳優が行う演劇ワークショップというのは色々あると思うのですが、よくあるのは、身体を中心にしたワークショップで、これはもちろん悪く言っているつもりは全然ないんですけど、身体の使い方、声の出し方、身体を使った表現方法、といったワークショップが総じて多いなと感じているなかで、僕がやりたかったのは、完全に教科書のように台本を読んでみるというワークショップでした。なぜここで、なぜこのタイミングで驚いた方がいいのか。なぜここで間をおいた方がいいのか。本当に国語の勉強みたいに台本を一行一行読むというワークショップをやってみた。というのも、今までに色んな劇団で色んな役者さんとやってきて、なんでこの人は台本に書かれているこれを読み取れないんだろうか……と感じることが少なくなかったんですよ。たとえば、ここで科白で「待って」って言っているんだから待とうとしなきゃいけないのに、それを無視してやっていたりとか。台本のなかにもっともっと情報があるのにそれを読み取れてない人が意外に多いなと実感して、そこから、じゃあ自分はどういうふうに台本を読んでいるかということを自分のなかで系統化してみて、それを伝えるワークショップを実施した、という次第です。敢えて頭を使う演技の仕方をやってみたワークショップでした。

───なるほど。おそらく、そうした武子さんの基礎的な戯曲読解力の高さがあってこそ、『月の剥がれる』を一度観ただけでさまざまな演技上の問題を指摘でき、それが広田さんを唸らせるということが可能になったのだろうと思います。実際、武子さんが『月の剥がれる』について指摘されたことは、なぜその科白をそういうふうに言うのか、とか、全体のなかでのそのシーンの位置付けを考えればそういうふうにならないはずだ、とか、戯曲読解レベルでの疑問もあったのではないか。

武子:そうですね……たしかにそういうことも言った記憶があります。どの科白が、という細かいことは覚えていないですけれども。全体の流れからするとあの言い方じゃないんじゃないか、とか。そのワンシーンだけを見ていたら成立しているけれど、前後のシーンが何であるか、自分がそのシーンに出ている意味、今一時間四十五分もお客さんは観てきているところであるという状況、そうしたことを広く視野に入れてやるべきじゃないか、とか。やはり、役者は作・演出と同じレベルの視野に一度は立つべきだと思うんです。演劇ですから、衣裳を自在に変えたり、セットを全部変えたりっていうことは現実的に無理だとしても、時間が経っている、場所が変わっている、季節が違っているということによって何かしら、身体の持っている状態や、人との関係性、或いはそれよりももっとささやかな変化があるはずで、それは、ともすれば全体のお芝居の空気感に繋がってくることもあるだろうと思っているので。あまりにも自分の役しか読めていないっていうことの弊害はあると思う。

───『月の剥がれる』を一度観ただけでそれを指摘できる、つまり完成形の舞台だけを観てそこまで指摘できるというのは、武子さんの観劇の眼の厳しさというものも感じます。

武子:僕は、映画はそうでもないんですが、演劇を観る時には100%お客さんの状態では観られないんですよね。絶対に役者視点で観てしまう。といってもべつに粗を探しているつもりはなくて、裏を知っている人間として総合的に、本番でもどこか稽古を観ているような状態に近くなるんです。ここで照明当ててもいいなーとか思ったり、このシーン自分だったらどうするかなーと思ったり、今のタイミングはもう少し遅くても良かったよなーと感じたり。だから、普通のお客さんよりは積極的に観ようとして観ていますね。

───でも、役者の方には誰しも必要なことだと思います。楽しむだけでなくてそのように能動的に観ることは。

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───ここまで話をうかがってきて、そんな武子さんが『銀髪』という戯曲をどう読んだかが、いよいよ気になってくるのですが。

武子:難しいのは……ちょっと語弊があるかもしれないですが、『月の剥がれる』とはやりたいことが違うというか、書いた人が違うんじゃないかっていうくらい全然違う作品ですよね。台本を読んでそう思いました。再演は2007年、初演はそれよりもさらに前ですから、その頃の広田さんが持っていた熱量、温度、やっぱり若い頃の、こっからこの劇団を大きくしてやろう、むちゃくちゃやってやろう、売れてやろう、っていうパワーがすごく戯曲に込められている。その山っ気は『月の剥がれる』ではもう洗練されてきていて、『月の剥がれる』は、作品としての勢いもありつつ、大人の鑑賞にも堪える、全体的なクオリティの高い戯曲であったと思うのですが、『銀髪』はもう、荒削りで、パワフルで、本当に若い人たちが若い人たちのためだけに演じているというようなところがある。その作品を、劇団としては円熟した今の状態でやるというのは……現在の広田さん自身が過去の『銀髪』をどう読んでいるのだろうかということが、まず気になるところですね。
 再々演にあたって戯曲が差し替えられることになっていますけど、現在の広田さんはこの過去の台本のどこにギャップを感じていて、どう書き換えようとしているのだろうか。僕としてはこのままで、あとは演出だけ変えるとか、僕らが自由にやってみるとかでもいいんですが、リライトされた『銀髪』を読むことでまた新たに発見できることがあると思っています。広田さんは、今回のリライト作業を通じて、現在の自分が考えていることと、これを書いた過去に考えていたこととのギャップを埋める作業をしようとしているのだろうから。時代考証的に、或いは今回の顔ぶれに合わせて書き換えるという意味での現実的な調整も当然あるでしょうけど、それ以外のところで、戯曲がどうリライトされるのかを、知りたい。どこをどう変えるんだろう。それを単純に見てみたい。その上で僕らがどう反応していくかが決まっていくだろうと思います。

───広田さんもこのタイミングで『銀髪』を再々演し、リライトするからには、現実的な調整という以上の作業をやろうとしているはずだと思います。

武子:今しかできないことをやりたいですよね。再演版の『銀髪』、台本を読んでいてすごく絵が浮かんできます。でも僕は今敢えて映像を観ないようにしているんですよ。どうせだったら知らない人間の強みを出したいなと思っていて。2007年版がどうだったかは知らないけれど、少なくとも俺はこの台本をこう読んで、こう思った、というのを提示して、そういう考え方もあるのかっていう驚きを与えられたらいいなと。もちろん再演版を踏まえなければならない部分もあるので、それは映像を観た人に教えてもらいつつ、今はまだ観ていない状態で色々提案しています。アマヤドリへの参加自体初めてでもありますし、言い方が悪いかもしれないですが、ビギナーズ・ラックというか、怖いもの知らずであるがゆえに出せるものを見つけたいと思っています。

───広田さんとしても、或る程度は俳優陣にそういうことを期待されているかもしれません。このタイミングで『銀髪』を再々演するということがすでに無難な選択ではないですから。

武子:そうですね。このメンバーで、今日ちょうど発表されたキャスティングを踏まえると、作品を上手くまとめることはまあ難しくないと思うんです。演出とか何も来ていない状態ですが、現状だけで考えてこのシーンはこうなるだろうなっていうのを想像して、作品が成立する図は、描ける。描けるけれど、でも、それじゃダメなんだろうなという気がしています。一旦それをぶっ壊して、再構築して、また壊し、また構築して、ということを通じて何か訳の分からないものであるパワーというのを全員が攻撃的に探っていかないと、正解に辿りつけないんじゃないかという気がしている。調整力だけで上手くまとまっちゃったらダメなお芝居だと思う。最悪「あのストーリーのあそこが良かった、あの科白が素敵だった!」みたいなことをお客さんに思ってもらわなくても、「なんかストーリーも全然分かんなかったけどなんか凄かったしまた観に来ます!」とか思ってもらえればそれでいいのかもしれない。その方が正解かもしれない。単に無難に成立しましたというレベルで見せるべき作品ではないはずだとは感じています。
〈了〉

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アマヤドリ本公演
『銀髪』@本多劇場
2017年1月26日(木) 〜1月31日(火)
http://amayadori.co.jp/archives/8910
http://amayadori.co.jp/ginpatsu
senden_ginpatsu


極月。今年もあと残り少なとなりましたが、みなさまいかがお過ごしでしょうか。『銀髪』稽古、すでに始まっております。

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文芸助手のわたしもときおり稽古場に行ったりします。そして、とくに何も発言せずに黙って帰ります。あとは文芸助手っぽくメモを取ったりします、とくに意味もなく。今、先日稽古中にとったメモを見返したら「すごい我慢するのでお風呂で叫んで泣いてスッキリ」「仏教というよりもマルクス」とか書いてありました。神秘的ですね。

実は、最初のうちは広田さんの戯曲執筆を手伝えばいいのだから文助(bun•jo)の俺が稽古場に行く必要はないぜ、などとタカをくくっていたのですが、演劇創作にたずさわるうち、徐々に認識を変えて、今では時機を見はからい稽古場に居合わせるようにしています。広田さんとの議論も、『ロクな死にかた』まではメール中心でしたが、『月の剥がれる』以降は対面の打ち合わせも重視するようになっています。

なぜか。そういうふうに変わってきた理由はいくつかあります。理由の第一を挙げるなら──演劇創作のプロセスにおいては、人と人との間の「コミュニケーションのズレ」が深い意味を持ってくるらしいと感じ始めたから、です。ここで言う「ズレ」とは意見の相違のみならず、相手の予期せぬ言動、こちらの言動の予期せぬ受け取られ方、相手のささいな誤解、こちらのささいな誤解、相手の考えの不透明さ、こちらの考えを完全に伝え切ることの不能、それに基づく感情的反応、気分的齟齬、混乱、困惑、……等々を含みます。こうした「ズレ」はメールやSNSを介したやり取りでももちろん生じますが、リアルタイムの、直接対峙してのコミュニケーションでは、その「ズレ」の体験としての残り方が全然ちがう。或る意味、無意識に「傷」として残ると言ってもいい。

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おそらく普通の社会生活の場と比べても、演劇の現場ではこの「傷」が不可避であるように思います。俳優の立場だと、一つの舞台作品の上演を目指すという主目的以外に、価値観も、考え方も、自己規定も共有しているわけではない集団のなかで、たとえば恋人同士のシーンを演じるとなれば、いきなり自分のプライヴェートな面を人前に(相手役・演出家・その他俳優・その他スタッフに)さらさなければならないということが起こる。俳優は、それがどう「誤解」されるかに耐えなければならない。コミュニケーションとしては非常に偶発的で不安定。でも、或る詩人の言い草じゃないですが──「美には傷以外の起源はない」──そうしたコミュニケーションのズレが、精神的な「傷」がちくちくと蓄積していくことによって初めて見えてくるものも、たぶんある。わたし自身予想外の「傷」を見つめることから、戯曲に対する、人に対する、世界に対する感受性が変わるという実感を得ています。それも、単に変化するのではなく、深さが増すという方向で。思うに、精神の表面がほとんど傷で乱されないほどに鈍くなってしまえば、演劇において重要な何かが失われてしまう(のかもしれない)。

とまれ、以上は思い付きです。色んな演劇の現場を比較して言っているわけではありません。ただ、アマヤドリの現場がコミュニケーションのズレを恐れない場であることは、たしかです。わたしと広田さんのやり取りに限っても、そういうことが言えると思う。文芸助手のわたしが稽古場へ行くのは、無意識の「傷」を自覚し先入観で鈍くなりかかっている感受性をふたたび過敏にする、という意趣です。戯曲の理解においても、それによって深化するものがあると考えています。

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アマヤドリ本多劇場初進出公演、『銀髪』再々演、2017年1月26日より。稽古初期からすでに現場の緊張感は高密度です。公演関連の各種イベントも発表・開始されました。ご期待ください。


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アマヤドリ本公演
『銀髪』@本多劇場
2017年1月26日(木) 〜1月31日(火)
http://amayadori.co.jp/archives/8910
http://amayadori.co.jp/ginpatsu

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