えー、吉祥寺シアターでもうそろそろ本番も折り返しに入っています。
「非常の階段」
いまもどんどん完成度が上がり続けています。
僕は「ケン」という役を演じています。KEKE です。
ネタバレともなんとも言えないことを、書きます。
悪と自由について
自由とは人間が冒された最大の病なんじゃな いか
自由という言葉にはとてつもない希望があるような印象があります。
基本的に良いものであるという感覚がありま す。
実に夥しい数の人々が自由を得る戦いのために死んできました。
貧困からの自由 抑圧からの自由 病気からの自由 差別からの自由
自由なんて知らなければ死なない命はたくさんあったでしょう。
人間という生物だけが、いま手元にない、得られるはずのないものを想像し、欲しがります。
それは、いつか、どこかのタイミングで「自由」なんてものがどこかにあると気づいてしまったからでしょう。
私はなぜ、あの人よりお金がないのだろう 私はなぜ、あの人より容姿が劣っているのだろう 私はなぜ、いつも周りをビクビクと伺っていなければいけないのだろう 私はなぜ、病気で苦しまなければならないのだろう
あの人は、なぜわたしより楽しそうに生きているのだろう
あらゆるものから、自由でいられるのだろう
あの人?
そこには一昔前なら、王様や貴族などの一部の特権階級の名前をいれることができたのかもしれないですね。
あの人 は いまは この世界のどこかの誰か なんてことも言える
私以外の誰かは、世界のどこかで、あらゆるものから自由に生きている
はずだ。
私には、手に入れられないものがある。行けない場所がある。会えない人がいる。
永遠に。
ありとあらゆる理由で。
戦いに負けたのかもしれない、家柄が違うのかもしれない、持って生まれた資質の問題かもしれない。
私はなぜこんなにもできないことだらけなのだろう。
私、私、私、
自由というものを考えることは実に鬱陶しいもんです。
あなた、とか、彼、彼女といった単語はほとんどでてこない。
私、私、私、
自意識は肥大します。
自由とは、自我なのかもしれない。
みんながその自由を求めて奔走し続けてきました。
でも、少し考えればわかることです
私が自由であるということは、相手も自由であるということです。
「全ての人間に自由な恋愛を」
と望んでそれを実現してみると
確かに家同士の望まぬ結婚は減ったかもしれませんが、
自分が「選べる」ということは、自分も「選ばれる」立場にたたされてしまうという点を あまり考えてなかったかのように見えます。
結果的に、選ばれない人は徹底的に選ばれません。
不自由です。
とても不自由です。
誰かの自由は、誰かの不自由であるということ。
こうなってくると、その、「自由」という言葉は「悪」という言葉とだんだん似てくる気 がしてきます。
誰かの自由は誰かの悪になりえるのです。
完全な悪は、完全な自由でしょうか
当たらずとも遠からずでは、ないでしょうか
完全な悪に比べて、完全な善は実に難しいです
相手にとって100%良いこと、なんて果たして出来るのか
キリストは、誕生した瞬間からエルサレム中の赤ん坊の犠牲の上に立ちました。
とてもじゃないが完全な善ではありません。
結局人間が選び取るしか無いのかもしれません。
自分の自由と、他人の自由を。つまり、自分の不自由を、他人に不自由を押し付けることを。
キリストのことを考えると、他人の自由を奪うことを「罪」と呼ぶのかもしれません。
赤ん坊に罪はない
それなら僕たちは一体いつのタイミングで罪を背負ったのでしょう?
長くなった上にまったくまとまっていませんが、
非常の階段で、そういったことが全て描かれています。
千秋楽まで、
「非常の階段」
いまもどんどん完成度が上がり続けています。
僕は「ケン」という役を演じています。KEKE です。
ネタバレともなんとも言えないことを、書きます。
悪と自由について
自由とは人間が冒された最大の病なんじゃな いか
自由という言葉にはとてつもない希望があるような印象があります。
基本的に良いものであるという感覚がありま す。
実に夥しい数の人々が自由を得る戦いのために死んできました。
貧困からの自由 抑圧からの自由 病気からの自由 差別からの自由
自由なんて知らなければ死なない命はたくさんあったでしょう。
人間という生物だけが、いま手元にない、得られるはずのないものを想像し、欲しがります。
それは、いつか、どこかのタイミングで「自由」なんてものがどこかにあると気づいてしまったからでしょう。
私はなぜ、あの人よりお金がないのだろう 私はなぜ、あの人より容姿が劣っているのだろう 私はなぜ、いつも周りをビクビクと伺っていなければいけないのだろう 私はなぜ、病気で苦しまなければならないのだろう
あの人は、なぜわたしより楽しそうに生きているのだろう
あらゆるものから、自由でいられるのだろう
あの人?
そこには一昔前なら、王様や貴族などの一部の特権階級の名前をいれることができたのかもしれないですね。
あの人 は いまは この世界のどこかの誰か なんてことも言える
私以外の誰かは、世界のどこかで、あらゆるものから自由に生きている
はずだ。
私には、手に入れられないものがある。行けない場所がある。会えない人がいる。
永遠に。
ありとあらゆる理由で。
戦いに負けたのかもしれない、家柄が違うのかもしれない、持って生まれた資質の問題かもしれない。
私はなぜこんなにもできないことだらけなのだろう。
私、私、私、
自由というものを考えることは実に鬱陶しいもんです。
あなた、とか、彼、彼女といった単語はほとんどでてこない。
私、私、私、
自意識は肥大します。
自由とは、自我なのかもしれない。
みんながその自由を求めて奔走し続けてきました。
でも、少し考えればわかることです
私が自由であるということは、相手も自由であるということです。
「全ての人間に自由な恋愛を」
と望んでそれを実現してみると
確かに家同士の望まぬ結婚は減ったかもしれませんが、
自分が「選べる」ということは、自分も「選ばれる」立場にたたされてしまうという点を あまり考えてなかったかのように見えます。
結果的に、選ばれない人は徹底的に選ばれません。
不自由です。
とても不自由です。
誰かの自由は、誰かの不自由であるということ。
こうなってくると、その、「自由」という言葉は「悪」という言葉とだんだん似てくる気 がしてきます。
誰かの自由は誰かの悪になりえるのです。
完全な悪は、完全な自由でしょうか
当たらずとも遠からずでは、ないでしょうか
完全な悪に比べて、完全な善は実に難しいです
相手にとって100%良いこと、なんて果たして出来るのか
キリストは、誕生した瞬間からエルサレム中の赤ん坊の犠牲の上に立ちました。
とてもじゃないが完全な善ではありません。
結局人間が選び取るしか無いのかもしれません。
自分の自由と、他人の自由を。つまり、自分の不自由を、他人に不自由を押し付けることを。
キリストのことを考えると、他人の自由を奪うことを「罪」と呼ぶのかもしれません。
赤ん坊に罪はない
それなら僕たちは一体いつのタイミングで罪を背負ったのでしょう?
長くなった上にまったくまとまっていませんが、
非常の階段で、そういったことが全て描かれています。
千秋楽まで、